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@dicegeistのlog

「発達障害」という考え方を持つことについて

(過去のTwitter投稿をあれこれとりまぜ加筆)

発達障害」ということについて、「昔はそんなものなかった」「わざわざ障害児扱いをしている」「できるはずのことを甘やかしている」というようなことを言うひとがいます。少なからずいます。

でも本当は、発達障害という考え方は「普通の子を障害と決めつけ、『できなくていい』と切り捨てていく」ためのものではありません。そうではなくてむしろ、かつてなら「普通の子」扱いから外れそうになり、その瀬戸際で揺さぶられてきた様々な子を、より一層その子に合わせた・公正な見方で見ていこうとする考え方です。「これができてあたり前」という窮屈な「普通」を広げ、いろいろな人がいる世界をより豊かに見ていくための視点です。精神論ではとても乗り越え難い苦手さを少しずつ越えていけるように支える方法論です。



これまでに、目に見えるわかりやすい障害はないけれど

  • 人の話を聞かない、屁理屈ばかりこねる問題児
  • ガマンの効かない、聞き分けの悪い問題児
  • 真面目に勉強に取り組まない、漢字を覚えようとしない問題児

として、叱られ続け、時に体罰まで受けながら育つ子ども、そうして育った大人たちがいます。
その子たち・大人たちは、「障害児」とは呼ばれなかったにしても、どれほどその尊厳を傷つけられてきたでしょうか。

こうした「できなさ」には脳の情報処理の仕方になんらかの困難があると考えられています。それは一見、普通の人が誰でも持っているようなちょっとした不器用さ・苦手さと似ているようでいて、その次元・程度が全く異なる人がいるようです。似ているようであまりにも違うので、当の本人ですら「自分の努力不足なんだ…」と感じて何十年もすごすような、見えないズレ。それが高じていけば、自分の存在価値を信じられなくなることにも至ってしまう。



昔は「自閉症」といえば「知的障害」を伴うのがあたりまえと考えられていました。なぜなら言語を十分に身につけられず、コミュニケーションが取れず、療育もされず、知能検査にもうまく対応できない人がそう診断されいたからです。約0.1%ぐらいそうした子どもがいると考えられていました。

それからいろんな人が研究をする中で、自閉症と似た特性を持っている人がもうちょっと多くいることが段々わかってきました。その人たちの一部は、ある程度言葉を身につけ、ある程度コミュニケーションがとれ、ある程度知能検査なんかにも取り組めました。また別の一部の人は、特異な性格と非凡な才能を持っているように見えたりもしました。こういう子たちも含めてみると、約1~2%ぐらいいるんじゃないか?これまで気づかなかったけど大人にもそうした人がいるんじゃないか?と考えられるようになり。

そうやって視界を広げていくと、診断名をつけるほどではない、「障害」と呼ぶほどではないけれど、似たタイプの子どもも大人もかなりいるようだ、と見えてきました。約5%。もっと多く見積もる先生なら、「10人に1人」とも。どこか遠い施設の中にいる人ではなくて、普通に生活しているなかで、あちこちで関わっている人たち。あるいは自分自身も?



様々な形で研究を重ねてくると、言葉で自分の感じていること・考えていることをうまく表現できない自閉症を持った子ども・大人が感じていること・考えていることのヒントが見えてきました。これはさまざまな医師・教育者・心理学者などの観察・実践によるものもあれば、自閉症的な特性を持ちながら言葉で巧みに表現をすることのできる人たちの貢献によるものもあり、無数の人たちが考え汗や血や涙を流してきた上でのことです。

一見意味の分からない行動やこだわり、かみ合わないコミュニケーションにもどうやら理由があるようだと見えてくると、そこに合わせた関わり方・教え方の工夫も考えられるようになってきます。その子を知ろうとして、その子に合わせた関わり方をすると、良いところを沢山引き出せる、という見方も一般的になり、ノウハウがどんどん積み重ねられてきています。



しかしそれと同時に、ある見方をすれば似たタイプの子ども、同じ診断名を持つ子どもであっても、子どもによって得意なことの活かし方も、苦手さに対するアプローチもいろいろな形があることもいろんな人を悩ませています。
ある一つの関わり方の引き出しを振り回し、それに無理やり子どもを押し込むようなことをするだけでは、なかなかうまくいかない。一部の子はうまくはまり、ある程度の子は子どもの側がその引き出しに合わせてくれても、一部の子はどうにもはまらないことが続いてしまう。

自閉症スペクトラム障害を持つ子だと、非言語的コミュニケーションが苦手な可能性がある。だからこの子にもわかりやすい伝え方を探してみよう」というのと、
自閉症スペクトラム障害を持つ子だから非言語的コミュニケーションは苦手なはず。だからこの子にはわからないはず」というのは、ちょっとだいぶ違います。



発達障害ということを真剣に考えていけば、それは子どもを「決めつける」ためのものではないことがわかってきます。
「これぐらいできてあたりまえ」と決めつけず、「できないはず」とも決めつけず、さらに、「◯◯障害ならこうすればできるはず」とも決めつけないで、その子・その人自身のことを考えていくことが、発達障害という考え方とセットなのです。

そしてそういう見えにくい苦手さ・その人ならではの個別性を考えることに慣れていくと、発達障害に限らず、なんらかの障害を持つ人に対して「かわいそうな人」という蔑視をすることも薄れていくでしょう。
発達障害を考えるということは、「なんでできないんだ!」とその子に怒り・責めるのではなく、「◯◯障害のタイプと考えられるけど、その上で、この子はどんな子だろう?どこをサポートするところから初めていこうか?」と前向きに考えていくこととセットだからです。

世の中のいろいろなモノや学問分野と同じように、医学や教育学・心理学、その中での発達障害という考え方は、思考停止しないで考え続けてきた先に実ってきたもので、また、現在進行形で考えられ続けているものです。だからどうか、「昔はそんなものなかった」「わざわざ障害児扱いをしている」と思考停止しないでほしいのです。

同じように、ある子どもに発達障害の診断名がつくことも、それで終わりのゴールではありません。だから、悲観して考えることをやめないでほしいのです。心ある専門職なら子どもの成長のことを、あるいは大人として生きていくことをあきらめずに考え続ける先導をし、応援をすることと思います。
こうやって言葉にしたものも、ショックのさなかにある方には気休めにしか見えないかもしれません。考えるのを止められる方がラクかもしれない、とさえ思うこともあるかもしれません。それでもいつか、こんな話があったな、と思い出してもらえることがあればと思います。何千何万人の人たちが何十年ごしでバトンをつなぎ、考えを積み重ね、練りあげてきたことは、安易に「発達障害なんてない!」とただ否定することよりも、きっとあなたの力になるはずです。



この続編記事として、もう少し個人的なレベルでの「障害受容」について書きました。
dicegeist.hatenablog.com