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@dicegeistのlog

発達障害の「療育」について(連続ツイートそのまんま)

通園療育の話。
もうちょっと具体的に言うと、通園療育に通っている人が、「これは療育じゃなくてただの保育だ!」と憤る場面について。最近だと放課後デイとかにも関係あるかも。

昔ながらの通園療育施設で保育士さんたちがやっている小集団療育と、今時の療育施設で個別でやっている療育とは見た目がどうしたって変わってくる。

マンツーマンか一対多かというだけでなく、いかにも何かのトレーニング・訓練に見えるか、幼稚園・保育園と同じようなことしているだけに見えるか。

個別療育というのは「マンツーマンで、幼稚園や保育園ではない濃密な訓練をすれば『普通の子』に追いついて、普通の幼稚園や保育園で過ごせるようになる」というイメージを喚起しがち。
それに対して、幼稚園や保育園「以下」のことをやってるだけだと、いつまでも追いつかなさそうなイメージになる。

ただでさえ、今時の療育は、アルファベットやカタカナの名前がついていて、「研究で実証されてます!」とかって言われたりして、すごく効き目がありそうに見える。

それに対して、昔ながらの通園療育は、どんな価値を主張していくか。

療育をやる側にとっての最大のポイントは、いろいろな子がいていろいろな親御さんがいろいろな関わり方を試行錯誤している、という親御さんにとっての障害イメージの見直しやピアグループ的な意味合いの部分だったりするんだけれども、ここを直接に親御さんにアピールポイントにするのは難しい。バツ。

通園療育的なもの、とりあえずやるだけなら簡単です。
保育士さんを集めて実年齢よりも目標設定を下げて時間を過ごせば、見た目は熟成された通園療育とあまり変わらないものができちゃう。
ほっといても子どもはそれなりに成長するし、時々親御さんにプレッシャーをかけとけば親のせいにもできる。

そういう見せかけだけの通園療育は、優しげなことと厳しいこととをまぜとけばそれっぽく聞こえるし、スタッフの経験値がいらないので安上がり。
そんなんだと、「療育じゃない、保育だ!」と呼ばれたりする。

でも、それって本来の「保育」の奥深さをバカにしてる。保育はただ預かるだけじゃない。

通園療育で(おそらく保育でも)大切にするのは、子ども自身の自立を促していくこと。
それは狭義の意味で、着替えや持ち物の扱い、トイレ、食事のような身の回り動作の獲得を促すというだけでなく、状況を理解し、場面の見通しをもって、自分自身の気持ちの切り替えてクラスに参加すること全体も。

個々の動作をより幼稚園や保育園に近い場面設定で、つまり汎化しやすいかたちで繰り返し積み重ねる、というだけではないのです。
マンツーマンでやっているなら「従うか、従わないか」の2択になってしまいかねないところを、自分で状況を把握・判断をするのは、先生が少ないからこそしやすい面も。

そして、「療育」というと、多くの場合、「言葉のトレーニングを行って、『普通に』話せるようになること」をダイレクトに期待する方が多いでしょう。当然です。

それなのに、通園療育では、濃密な言葉のトレーニングをしなかったりします。なぜでしょう?
この辺は、人によっていろいろな考え方がありますが、私はこう考えています。

通園療育のメインターゲット層である、自閉症傾向と知的発達の遅れとを兼ね備える子たちについて、ただ単に「言葉のトレーニング」だけを目指そうとしてもうまくいきにくいから、だと私は考えています。

人への意識、コミュニケーションをとりたいという意識がまだあまり育っていない段階で、ただ言葉だけを教えようとしても、結局それがコミュニケーションでの使用に結びつかなかったら、意味がない。
ならば、はじめに言葉、ではなくて、コミュニケーションを交わしている状況を先に作っていく。

療育の中の課題の時間、遊びの時間、スキマの時間、そうした様々な場面で、まずは先生がその子と「つながる」時間を作っていく。
その上でやりとりに言葉を乗せていくほうが、長期的に見ると、より言葉を使ったコミュニケーションを引き出すのに有利なんじゃないか?という考え方。

それこそ、アメリカの個別セラピストのように、週に何十時間も個別療育をやっていれば、間に遊びの時間もスキマの時間も入り、ただ単に課題だけを通したつながりにはならないでしょう。

でも、自閉傾向や知的発達の遅れが重いお子さんだと、週に1時間や2時間の個別よりも、たとえマンツーマンではなくても、4時間×3〜5日の時間を、いろいろなやりとりをしながら、いっしょに何かを喜び、何かの達成感を得て過ごすほうが、言葉・コミュニケーションの世界が開けやすいのではないか?

あと、小集団の通園療育では一人一人にあった課題設定がされていない、ということもよく言われます。
これは、どれぐらい丁寧に支度をしているかということも影響しますが、それだけではありません。
なぜなら、たとえ同じ課題を一律にしていたとしても、一人一人の狙いが違ったりするからです。

ある子にとっては手先の巧緻性を高めるための課題、別の子には感覚過敏を少しずつ弱めていくための課題、はたまた模倣・見比べをする課題かもしれないし、他の子と道具をやりとりする課題かもしれない。
全員が全てをあまさず120%のねらいとはならないかもしれないけれど、ただやるだけではない。

こうした、通園・小集団療育ならではの目標設定の仕方って、あたりまえのように実践しながらも言語化が苦手な先生もいるし、あるいは形だけをマネしていて本当に見えていない形だけの療育、という先生もいるかもしれない。時間設定の都合上、どうしても伝えきれないことも、あるかもしれない。




「療育」というとき、一番難しく、かつ一番のポイントは、一口に「発達障害」といっても、その子のどんな側面に、どんな風にアプローチするといいかが子どもによって違う、ということです。
アセスメントの問題。

そういう意味で「発達障害を治します」という人も、「発達障害は治りません」という人も、カテゴライズだけして、適切な見立て・アセスメントをしてないんじゃないか?という懸念されます。

成長しにくい部分には長期的な視点を持って、成長のカギになりそうな部分には具体的にアプローチする。

この「カギになる部分」が何かということの考え方が様々に違うのがいろいろな療育の多様性の部分。
個別を中心とした療育なら言語と認知機能にフォーカスしてますし、身体面を中心とした療育なら感覚・運動面にフォーカスしてます。SSTなら社会的な理解や対人相互コミュニケーションにフォーカス。

一人の子どもの発達なので、どこを切り口にしても、結果的に他の側面にも療育の効果が波及していくことは多々あります。極端に偏狭・排他的なアプローチでなければ。
小集団・通園形式の療育はうまく行えば様々な側面に同時並行してアプローチできる可能性がありますし、ヘタにやると何にもならない。

この間に「すぐにはめざましい効果が出なくても、ちゃんと成長を引き出している」療育がたくさんあります(たぶん)。
子どもの成長が引き出されてくるのを「待つ」ためには、親御さん向けの「見通し」、つまり療育の意味・ねらいの説明が必要です。
説明すればすぐに納得がいくとは限らなくても。

タイムラインで話題になってましたが、その療育施設がこの説明をちゃんとできるかどうか、そしてそれがまぁまぁ納得ができるものかどうか、試してみることが極端に高料金ではないかどうか、が療育施設を見分けていくためのポイントになると思います。

そして、その療育施設の唱えるアプローチがお子さんにあってるかどうかは、親御さんが判断するものです。
そして、そのためには、親御さんがお子さんの「発達障害」の中身について、わかっていないと難しいでしょう。
本やインターネットに書いてあることではなく、その子自身のことです。

別の難しさとして、地域ごとにそこで受けられる療育サービスの違いがあります。
発達相談や診察の中で、「その子の障害(疑いも含む)の形を理解していけるように説明すること」と併せて、「その子に合っていると考えられる療育アプローチを勧めること」も必要ですが、「ない」ものを勧めないように…

では、その地域で簡単には受けられない療育アプローチを勧めたいときはどうするか?
次の相談日までの間に、家庭や幼稚園・保育園でできる療育的なかかわりについて伝えていくことが専門職の仕事でしょう。
このとき「療育的なかかわり」を机を挟んで向き合って個別課題をすることに限らないように。

療育とは、何か特別な時間・場面を作って一対一で何かを教える、その場で何かをできるようにさせることだけではありません。
普段の生活の中で、多数派の子どもがほっといても勝手に成長・獲得するようなことを、その子も成長・獲得しやすいように「整える」ことも、療育です。

例えば、ADHD特性に対する療育とは、「その子の不注意特性をなくすこと」ではありません。
「不注意特性を持ちながらも、失敗しにくいやり方を自分で選べるように、どうするとその子がうまくできるか、一人でできるようになるかを考えながらガイドすること」が療育です。

こうした意味では、例えば週に1回、あるいは少なければ年に何回かどこかのセンモンキカンで何かのトレーニングをすることよりも、
普段の家や学校での生活の中で、どういう積み重ねをするかの方が、大事です。
ここに薬物療法も併用することもありますが、まずは普段の生活の工夫が大前提でしょう。

あるいはLD(学習障害)について。
こちらについては、作業療法士さんや視能訓練士さんのトレーニングが幸運にも受けられる地域なら、試せるといいでしょう。
しかし、このどちらも、都市部であっても受けるのはとても難しいかと思います。こうした分野を専門にしている専門職が少ないので。

だから、やはり家や学校への工夫の導入が不可欠です。
LD特性への療育、合理的配慮とは、単に「やらなくていいよ」ということではありません。たまに歪曲する人がいますので注意。
「認知面のハンディキャップがあっても、勉強すること自体を嫌いにならずに学習経験を積み重ねること」が療育です。

学習課題のレベルや量を調整したり、教科書やプリントを読みやすいようにさまざまな器具を使ったり、プリントのレイアウトを改変したりしながら、その子が学習全体を嫌いにならずに達成感、自己効力感を持てるようにしていくことが療育です。
LD特性自体を治せなくても、あの手この手がある。

ちょっと戻りましょう。
療育の上で、なによりも一番大切なのは、すばらしいプログラムではなくて、その子自身の障害特性を見立てていくことです。
そして、専門的な療育を受けられるにせよ、受けにくいにせよ、何をねらいにしているか、それがどのような効果につながっているかを見ていくことです。

知識・能力を持った専門職はこの見立てと対応方法の工夫とを同時並行でしていきます。
そうした専門的な療育を継続的に受けられなくても、親御さんが心理士や医師との相談・診察を通して子どもの見立てができるようになっていけば、「対応方法」の情報は本でもインターネットにも、たくさんあります。

そして、相談・診察さえも、なかなか受けにくいこともあるでしょう。あちこちで絶望的に専門職が足りないので。
ならば、まずは試してみましょう。いろいろと。
その中である工夫から手ごたえがつかめれば、ひっくり返すことで、その子が何を苦手にしていたのかが見えてくるかもしれません。

専門職であっても、お子さんをいろいろな状況で見ながら、あれこれ聞き取りをしなければ、困り事の根っこは見つけにくいかもしれません。
でも、ヒント集なら書けますし、つぶやけます。
そこを実際の子どもの姿と結びつけていければ、それはれっきとした「障害理解」であり「療育」だと考えます。

ヘンな療育施設、ヘンな放課後等デイサービスの「センモンカ」よりも、親御さんの方がはるかにその子に詳しくなることは、決して難しいことじゃありません。(簡単でもないけど)
だから、どうか、視野を広くして、あの手この手でいろいろな見方や技を盗んでいってもらえればと願います。