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発達障害の見立て・アセスメントについて、チェックリストの先のもの(一心理士の視点)

今まで療育的・特別支援教育的な分野に携わらなかった人が、新たにこれから携わるようになる場合、「方法」や「プログラム」に目が向きすぎて、子どもの現況の評価や見立て、アセスメントということへの意識が薄くなりがちなように思います。
心理士であれば、トレーニングの課程の中で、見立て・アセスメントというのが必須です。
これは療育的な分野に限らず、広く心理士の職務分野で必須の考え方なのですが、こうしたアセスメントの意義を共有していない人が意外に多いことに、じわじわと気づかされてきました。

幼稚園や保育園や小学校で、あるいは親御さんから、「どうやって教えていったらいいですか?」と聞かれる時に、その見立ての考え方も一緒にお話ししますが、
「そんなことはいいから、どうすれば良くなるかだけ教えてください」となってしまうと、応用がききません。



見立て・アセスメントとは、単にチェックリストを元に診断名を考えることではありません。


子どもの育ちのことが気になってインターネットでちょっと検索すると、「もしかして◯◯障害かも?」という記事が見つかることがあるかもしれません。そうしてそんな記事にはなにかの「チェックリスト」みたいなものがついていたりも、するかもしれません。
私が母子保健の現場での発達相談でお会いする親御さんたちは往々にして、そうした「もしかして?」の記事や「チェックリスト」を事前にご覧になってきているようです。

とはいえ、そうしたチェックリストは往々にして誤解されているようにも思います。

たとえば「こだわり」という言葉。
「ウチの子、こだわりが強いんです。だからちょっと気になってて…」と親御さんがおっしゃる時、それが自閉症スペクトラムの特性としての「こだわり」ということはあまりありません。大人が「□□しようね」といったときに、すぐに従わないで反発することがたびたびあることを「こだわりが強い」とおっしゃっているだけのことが大半です。

また、「落ち着きがない」ということもなかなか厄介です。元々、ADHDの確定診断を低年齢でつけることは難しいと言われていますが、これについてもADHD特性からくる落ち着きのなさであることはそれほど多くなく、やはりただ単に「聞き分けがない」ということを言い換えているだけのことも多いです。

さらに小学校以上になると、「授業にちゃんと取り組めない」「教師に反発する」ことをもって、「発達に何か問題があるんじゃないか?」と言われることさえも出てきます。そんな乱暴な…

もっとひどい例としては、「休み時間に1人で教室で過ごしているのが高機能自閉症の特徴」みたいなことを書いてある本もあるのだとか。ここまでいくと笑えません。

このように人の状態をチェックリストを元に判断することは、「操作的診断基準」といって、生物学的なマーカーが確定されていない精神科系の診断において広く取り入れられているやり方だったりします。これは、お医者さん同士で診断名がバラバラになってしまわないようにする上ではとても重要な考え方ですが、あくまでも経験を積んだ医師が診断の補助として使うためのもののはずです。



子どもの育て方を考える上で、あるいは療育の方針を考えていく上では、こうしたチェックリストは取り扱いに注意が必要です。
なぜなら、たとえ同じ診断名になるとしても、様々な特性のあらわれ方が一人一人異なることが頻繁に見られるのが発達障害の特徴のひとつだからです。
また、チェックリストを元に考えようとすると、「②と③と⑥は当てはまっている気がするけど、①と④と⑤は当てはまっていないから大丈夫じゃないか…」と見過ごしたくなるリスクもあります。チェックリストの項目は、その全てに当てはまるはず、というものではありません。



それでは、どうやって子どもを見立ていけばよいのでしょうか?
心理士として私がしていて、お勧めしたいのは、「どうしてそういう行動がみられるか?」、まずは「どんな認知特性に基づいてその行動が表れているのか」を考えるということです。

チェックリストを、単に「ある行動・特徴が見られるかどうか」という使い方をするだけでは、振り回されてしまいます。
そうではなくて、ある診断名にまつわるチェックリスト項目の意味を知ることができれば、その子の行動・特徴の背景を考えるためのヒントになり、それがそのままその子に合わせた配慮・育て方・療育の工夫につなげていくことができます。

たとえば、「衣服のこだわりがある」という場合、いろいろな事が考えられます。
毎日同じ、決まった服しか着たがらない子がいるとして、その子は感覚過敏があって、自分が安心して気持よく着られる服以外は絶対に着たくないのかもしれない。あるいは、興味・関心の限局があって、そのトーマスの絵が描いてある服じゃないとイヤなのかもしれない。はたまた、色に特別なイメージがあって、青い服じゃないとイヤで、黄色はダメなのかもしれない。

こうした「ウラ」がある「こだわり方」と、「今日はこの服を着ようね」と促されのに対して「イヤ!」と反発・自己主張をしたい「こだわり方」とでは大分違います。
反発・自己主張をしたい意志の育ちから生じてている「こだわり」ならば、本人の自己選択の幅を認めればそれだけで解消できるかもしれません。

それに対して、極度の感覚過敏や、興味・関心の著しい限局、本人の特異なイメージの抱き方が根底にあるならば、それはより自閉症スペクトラムの傾向に近いものかもしれません。
そして、たとえ同じ自閉症スペクトラムと診断される子であったとしても、その子にとって何がこだわりの元になっているかを考えないと、適切な対応にはなりません。
感覚過敏が原因なら同じような素材・フィット感のものならば受け入れられるようになるかもしれないし、興味・関心の限局が元なら同じキャラクターものなら大丈夫かもしれないし、本人なりのイメージが元ならそこを何とか見つけ出していけるといいかもしれません。



とはいえ、こうした行動レベルでの見立ても一筋縄ではいきません。

例えば、ある授業中に落ち着きがない子は、感覚刺激を入れたい欲求が強くて体を動かさずに入られないのかもしれないし、あるいはいろいろな外部からの刺激をキャッチしてそれに反応してしまうのかもしれない。はたまた、自分で思いついたことをすぐに試してみずにいられなくて授業中だということが頭から抜け落ちてしまうのかもしれない。
こうやって考えると、まずは、「ADHD・ADDの特性のために授業中に落ち着きがないのだろうな」となるでしょう。

でももう少し踏み込んで見てみると、実は、聴覚情報処理の苦手さのために先生が話していることを理解しにくいことも根底にあるかもしれないし、読み書きの苦手さのために学習に困難があるのかもしれません。あるいは社会的ルールの理解の曖昧さがあるために、授業中は先生の指示に従わないといけないことをそもそも知らないのかもしれません。

こうなると、LDや自閉症スペクトラムなど別の診断名に関するような特性も同時に影響しているかもしれない、と考える必要もあるかもしれません。



さらに、子どもが成長すればするほど、こうした自分の特性をどう把握して、どう考えて、どう対処しようとしているか、ということまでも影響してきます。

様々な発達障害特性のために授業への取り組みが困難、というだけでなく、それまでに募り募った自信のなさのためにハナからもう聞きたくないのかもしれません。
あるいは、自分が読み書きが苦手なことをバレたくないがために必要以上に居丈高になってワルぶってごまかそうとしているのかもしれません。
逆に、聴いて理解することが苦手と自覚しているために自分で先に先に教科書を読んで自分のペースで理解しよう、勉強に取り組もうとしているかもしれません。



時として、多くの子どもがしないような不適切な暴言・暴力を、「発達障害の特性だ」と短絡的に結びつけてしまわれることがあるようですが、それではなんの理解にもなりません。せいぜいがただのレッテル貼りです。

暴言・暴力の根っこにあるのは本人のどんな思いや自己理解なのか。
そしてそのさらに根っこにあるのはどんな認知特性なのか。
ここを考えるための武器が発達障害の理解であり、こうした道のりを経て初めて、その子の理解を進めていくことができるのだと考えます。



さらに言うならば、今まで「発達障害の特性」のように一体のように考えられていたことが、実は二次的なものだった、ということもあるかもしれません。
自閉症スペクトラムから抑うつへ、ADHDから反抗挑戦性障害へというようなよくある経過というのは、広く「二次障害」として知られています。
しかしそれだけでなく、学習障害を持つ人が学習を嫌いになりがちなことと同じように、自閉症スペクトラムを持つ人が他の人とのコミュニケーションを避けるようになりがちなことや、ADHDを持つ人が自信をなくしていきがちなことも、広い意味での「二次障害」と考え、適切な理解と介入があれば、あるいは防げるのではないでしょうか。
そうしたことまで含めて、「発達障害」ということを考えていければと願います。