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@dicegeistのlog

わが子の発達障害特性を考えることと、自分自身の発達障害特性を考えること、障害を「受容」すること

前の記事では、社会的、大局的な話をかきました。

この記事は、個人のレベルでの話を書きます。


「発達障害」という言葉は、使う人・文脈によって大きく色合いを変えます。
特に、①わが子の将来に関する「不安」の象徴のように使われるときと、②大人の方がこれまでに経験してきた大変さの「解説/仮説」として使われるとき、③第三者が排除的・侮蔑的に使うときとでは、意味合いがとても大きく変わってきます。

わが子に関して「発達障害」という言葉と出会うのはどんな時でしょう。
ただでさえ、子育てというものは先行きが見えず、親御さんに様々な責任がおっかぶせられる時代。そんな中で、家庭で親子で関わるとき、あるいは幼稚園・保育園・小学校などで、何かうまくいかない・しっくりこない不安感が募ってくる。
そんな不安感を象徴するような言葉として、「発達障害」とか「発達障害の疑い」とかって言葉が降りかかってきたならば、それを否定したい、払拭したいと思うのも無理もないこと。

それに対して、自分自身を考える上で「発達障害」という言葉と出会うとき、その人はきっと、「不安感」などという言葉では済まないような、いろいろな日々を何年も、何十年も過ごしてきた先でのことでしょう。
その過去はもう起こったことだから、それをどう振り返るか、見なおすかというふうに自分のことをもっと知りたいというような形のことが多いのではないでしょうか。そして、これから先、少しでも立て直しをはかれるチャンスをを考えていく足がかりとして使われたりする。



発達障害ということに限らず、私たちは「自分のことを知りたい」「自分の知らない角度から見なおしてみたい」という思いを持っています。
おとぎ話に出てくる魔法の鏡をはじめとして、占い、おみくじ、診断メーカーや、いろいろな「心理テスト」などなど。
心理学的、精神医学的、社会学的概念がこのように使われることもある。「毒親」とか、「AC」とか、「ニート」とか。
そういう装置や言葉(概念)を使ったちょっと違う自分の見方は、うまく使えれば納得に、もっとうまくいけばなにか新しいことに舵を切るきっかけになるかもしれません。その反面で、悪く働くと自分自身を縛るものにもなりえます。

そしてこうした目新しい概念の持つ魅力を悪用して、他人に対して無闇矢鱈に振りまわし、排除的・侮蔑的に悪用する人もいます。たとえば「アスペ」という言葉はもはやネットスラングになってしまいました。
これは、端的に言って、間違っています。
ハンス・アスペルガーさんは、自分の名前が対人コミュニケーションが苦手な人の蔑称として使われることを目指して研究したわけなんかでは、決してない。

Twitterのフォロワーさんで、「なんだなんだ、そうだったのか」というタイトルでブログを書かれている方がいます。
発達障害、発達の凸凹という見方に気づくこと、知ること、それを取り入れるということは、「そうだったのか」という理解・洞察のために使われることで真価を発揮するはずのものです。



発達障害は個性なのか?障害なのか?、ということが時々問題になります。

確かに、発達障害を抱えながら、際立った優れた才能や、独特の魅力を持っている人がいます。
とはいえ、たまに誤解されているように、発達障害を抱えているからといって全員がなにか特別な才能を持っているとは限りません。
むしろ凸凹は大きくても普通の人、ということの方がはるかに多いでしょう。

「個性」とか「性格」という見方は、「病気のように治すものじゃない、本人の人格と一体不可分のもの」という意味ではとても大事なもの。
でも、本人が様々な形の生きづらさを抱えている時、それを第三者が勝手に「それはあなたの個性ですよ!」などと言って良いのでしょうか?
その人との信頼関係とかいろいろなこと次第では温かい後押しになるかもしれない言葉だけれども、得てして無責任な切り捨てにもなりかねない。

吉田友子先生という児童精神科医の先生が書いている「障害でもあり、個性でもある」という見方が収まりが良いと私は思います。



子どもの話に戻りましょう。
子どもに「発達障害」という名前が貼り付けられそうになってるときにも、この「障害でもあり、個性でもある」という見方が重要になってきます。
子どもの育ちが健やかなものであることを願うこと、親なきあとも子どもが自立して生活していけるように育てようとすること、そのためにできることをあれこれしようとすることは、ごく自然なことです。
でもそこから、障害を否定したいという思いが高じて、その子自身の人格や思いを否定することになってしまわないように。
そのレッテルを何が何でも取り去ってビリビリのギッタギタにしようとすることに執着するあまりに、子どもの姿を見失わないように。

「何が何でも子どもの障害を治さなくちゃ!」と躍起になって奔走して、多大な時間とお金をかける人がいます。
これはなかなか苦しい。なにせゴールが見えないので。「治す」ことをゴールにしてしまうと、それは幻のゴールになってしまうかもしれない。

オランダへようこそ!という話があります。
少なからぬ親が、子どもが生まれる前から「この子は○○が好きな子に育てて、☆☆にならせよう」という風に思い描いたりします。
それが、障害の疑いや診断告知で消し飛ぶようなショックを受ける。
なればこそ、「障害が治ってほしい」「普通の子になってほしい」と思うことも自然なことでしょう。



「障害受容」という言葉があります。
「あの親は子どもの受容している」「この親は子どもの障害を受容していない」などと言うふうに使う人がいます(私はこの言葉は嫌いなので使いません)。
でもこれは元々は、死に至る病を抱えた人が自分の死を受け入れていくプロセスをモデル化したものです。
このズレが、「発達障害は脳の先天的な機能不全であって、病気ではないから治らない」という言葉と相まって、しばしば誤解を広めていることに注意が必要です。

「子どもの発達障害を受容する」とは、「治らずにどんどん悪化していく」と諦めることではありません。
発達障害を抱えていても、適切な関わり方を積み重ねていけば、ちゃんと子どもは成長します。
「治す」ことではなくて、「成長させる」ことを目標にすれば、着実なアプローチはたくさんあります。
そして100%適切な関わり方でなくても、いろいろ試行錯誤しながらでも、ちゃんと成長します。

大人が自分自身の発達障害特性を考える時と同じように、わが子の発達障害特性を考える時にも「これから」のことを考えていけるようにできればと願います。
子どものことについて「受容」という言葉を使うなら、「その子が障害を持っていること、多数派と違う成長の仕方をすること」をひとまず確認するまでで十分ではないでしょうか。
別の言い方をすると、「発達障害を抱えているその子のことを受容する」ことができれば十二分ではないでしょうか。



また、「子どもの発達障害を受容する」とは、「障害特性に由来する行動を、どんなに理不尽なものであっても、全てありのままで受け容れ耐え忍ぶ」ということでも断じてありません。
仏様のような寛大な心を持って子どもの理不尽な行動をただ黙って耐えて受け止めなければ、なんてことを目指しても、私たちは人の子なので必ず限界が来る。
だから親御さんが、「発達の仕方が多数派の子どもと違う子どもを授かり、育てていくこと」だけでなく、「その子育ての中で感じる、親御さん自身の様々な感情の幅すべて」も受け入れられればと願います。

かわいい面も、時に憎たらしい面も、様々な面を持つ子どもと関わり育てていく上で、親御さんが自分自身の抱いて良い感情の幅を制限なんかしてたら、素晴らしい親として振るまわなくちゃなんて自分を縛っていたら、その子の成長を引き出していくためのいろいろなやり方を考える余裕なんてなくなります。
叩かれたり、噛まれたり、床に何かをぶちまけたり、壁になにかを塗りたくられたり、何遍も果てしない繰り返しにつき合わされたり、そんな中で感じる「イヤだなぁ…」という気持ちを抑圧しないこと。抑圧したものはいつか子どもに向かって噴出するから。

そうならないように、自分のネガティブな気持ちの置き場所をちゃんと作ること、誰かと話すことが命綱になります。
その上で、「こんなめんどくさい子だけれど、イヤなことばかりじゃない、確かに喜びもある、『普通』にはならないかもしれないけど、この子を自分が育てていこう」と思えるようになるのなら、それが「障害受容」の最高の形なんじゃないでしょうか。



発達障害があっても子どもは成長していくし、一筋縄でいかなくても教えていくことができます。
ポジティブな感情も、ネガティブな感情も、どれも遠慮したり抑圧したりしないで、自分ひとりの中で抱えるのではなくだれかと話すこと。息を吸っては吐くように。雨の日も晴れの日もあるように。
「障害」という言葉のショックで崩れちゃったそうした子育ての中での気持ちのサイクルをまた回していけるように。






次の記事では、発達障害、あるいは発達の凸凹を抱えたままで、どう自己分析して生きていくかについて書きました。
dicegeist.hatenablog.com