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dicelogue

@dicegeistのlog

翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その5)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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一部の人たちは、自閉症を根こそぎなくすことが最良の結果だという考え方を否定しています。自閉症者による自閉症者のための団体である自閉症者セルフ・アドヴォカシー・ネットワーク代表のアリ・ニーマン氏は、「自閉症は治療を必要とする病気ではありません」と語ります。自閉症者に特有の資質が、たとえ世界のほかの人々にとっては変わったもののように見えたとしても、価値あるもので、彼らのアイデンティティーの一部であることを忘れてはならないといいます。たとえば動物学者であり、執筆者でもあるテンプル・グランディンは、自らの優れた空間認知能力や細部への徹底的な集中力を自閉症のために持っているものとしており、そのおかげで名高い人道的屠畜場を設計することができたのだといいます。

ニーマン氏や彼と同様の主張をする人々も、コミュニケーションを改善し、認知・社会性・自立生活スキルを伸ばすための療育については、強く支持しています。しかし、自閉症を丸ごと消し去ろうとすることに重きをおこうとすることに対しては深い憤りを覚えるのです。一体なぜ、自閉症でなくなることの方が、自閉症者として自立した生活を営み、友人と仕事を持ち、社会に貢献する一員として生きることよりも「良い結果」だというのでしょうか。どうして手をヒラヒラさせたり、視線が合わないことの方が、「良い結果」であるかどうかを考える時に、プログラミングができることや難解な数学の問題を解けることや、魅力的な曲を作れることよりも重大なことになるのでしょうか。どんな証拠を元に、自閉症の診断を失った人の方が、自閉症のままである人よりも成功しているとか幸せだとかというのでしょうか。

ニーマン氏は語ります。「私たちの脳の配線を根っこから全て繋ぎ直して、考え方や世界との関わり方を変えるなんてことはできないように思います。そんなことがもし可能だとしても、それは倫理的に正しいことではないでしょう」。彼や同様の主張をする人々は、自閉症とは同性愛や左利きであることと似ていると主張します。違いではあるけれども、欠陥でもないし、病的なものでもないと考えます。この見方は1993年にジム・シンクレア氏という人が、自閉症児の親たちに宛てた公開書状でかくも印象的に著したものであり、のちに神経多様性運動と呼ばれるもの火付け役となりました。「あらゆる感覚や、知覚、思考、感情、出会い、その他あらゆる存在の側面を色付けるものなのです。自閉症をその人から切り離すことは不可能です。そしてもし可能であるにしても、切り離された残りの人は元々の人とは別人でしょう。・・・それゆえに、親が『子どもが自閉症を抱えていなかったらよかったのに』という時、その本当の意味は『私たちから産まれたこの自閉症の子どもが存在せず、別の(自閉症じゃない)子どもが代わりに産まれていたらよかったのに』ということです。・・・あなたたちが治療方法を切望する時、私たちにはこうした声がきこえます」

また、社会が自閉症を押し潰そうと努めることは、同性愛を抑圧しようと努めてきた歴史と軌を一にするものであり、同じように有害なものであるとニーマン氏は語ります。60年代、70年代にロヴァースの研究チームが、「偏向した性役割行動」を示す少年たちに対してABAを用いたことを彼は指摘します。その一人はロヴァースがクレイグくんと仮名をつけた4歳の男の子であり、「女々しい」歩き方・仕草をして「男性的な活動」をイヤがったと記しています。ロヴァースは、「男性的な」行動を報酬で強化し、「女性的な」行動を罰を使って消去しようとしました。この子が同年代の子どもたちと「見分けがつかなくなった」として治療は成功したとロヴァースは考えました。数年後、このクレイグくんはゲイであるとカミングアウトし、38歳の時に自殺します。彼の家族は、この治療のせいだとして非難しています。

神経多様性運動の推進者たちは、行動療法が自閉症者たちの幸福な暮らしのためというよりも、他社の快適さのために設計されている側面があることに苦しめられています。自閉症の子どもはしばしば、手をひらひらさせる代わりに「お手てをそっと」しておくことを報酬で強化されます。奇妙に見えてしまわないようにする、というこの優先順位付けを、運動の推進者たちは迫害的だと感じます。ニーマン氏はこんな例も教えてくれました。「私たちにとって、目を合わせることは不安を引き起こす経験です。なので、誰かの目を見ないようにしようという私たちの自然な傾向を抑え込むことはエネルギーを消耗することであり、そこにエネルギーを費やさなければ、相手の人が何を話そうとしているのかをよりじっくりと考えることに使えるかもしれないのです。自閉症の若者たちの間でとても有名な言葉があります。『ちゃんと話を聞いているように見せることもできるし、それとも本当に話を聞くこともできる』と。残念なことに、多くの人々は私たちに、ちゃんと聞いているように見えることの方が、本当に話を聞くことよりも大事だというのです」。

ゲイの人々が同性愛を「治した」と言われることが、彼らの本当の自分自身を隠しているだけにすぎないのと同じように、自閉症ではなくなったと見られる人はうわべだけ素晴らしくしているのにすぎず、その幻想のために心理的な対価を払っているのだとニーマン氏は主張します。例えば、自閉症運動の推進者たちは、フェインの研究で「最良の結果」とされた人々のうち5分の1に「過剰抑制、不安、抑うつ、不注意や衝動性が見られ、きまりの悪さや時に敵意を抱いている」としてきします。

その一方でフェインはこうした解釈に疑問を投げかけます。確かに自閉症ではなくなった人々も、自閉症とはよく並存する心理的な脆弱さを残していることを認めています。しかしながら、「最良の結果」とされる人々は比較対照グループの高機能自閉症者たちと比べて、抗うつ剤や抗不安剤、抗精神病薬を使う確率が低いと、フェインはのちの研究で見出しています。ロードの研究においても、以前は自閉症だったもののそうではなくなった人が、同等のIQの自閉症者たちと比べて、精神科的問題を抱えることが少ないと、同様に見出しています。

もちろん、こうしたことは自閉症者が自閉症ではなくならなければいけないとか、世界との関わり方を典型的なやり方ではないからというだけの理由で変えなければいけないとかということを意味するものではありません。それでもなお、自閉症からあたかも脱皮していくかのように変化する人々が実在することが明らかな以上、自閉症児の親たちが子どもの自閉症がある日なくなるかもしれないという希望を抱かないはずはないのです。


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