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@dicegeistのlog

発達障害を抱えて生きること、あるいは、自分自身になっていくこと

前の記事では、「発達障害」という考え方を、どうやって子どもや自分自身のこととして見ていくかという話を書きました。

こんどの記事は、そうした発達障害を抱えたままでどうやって生きるか、という話です。


発達障害を抱えた子ども・大人が成長するとはどういうことでしょうか?

人間、特に日本人は、あるいは子どもの親は、「弱み」・「苦手さ」・「問題行動」「発達障害に特徴的な行動」をなくしていくこと、そうして「普通の子」にすることを重視する傾向があるようです。
そういうと逆に、「障害は病気じゃないから治らない」「無理をさせるのはいけない」「ありのままのその子でいいんですよ」というような話をする人もいますね。

もちろん、様々な場面で本人あるいは周りの人を苦しめるような行動については、少しずつより良い行動に置き換えていくことが望ましいのはあたりまえです。色々なことができないよりは、できる方がいいでしょう。
わざわざ苦行のような生き方をすることはない、ラクな方向を、より選択肢の広い生き方をできる方向を目指していくことは必要です。

でもそれが行き過ぎて、「発達障害に特徴的な行動は全部なくさなくちゃ!そうしてこの子から障害を取り除かなくちゃ!発達障害を治さなくちゃ!『普通の子』にしなくちゃ!」ということがゴールになってしまったら、あまりにストイックな道のりになってしまいますし、本当にそのようにうまくいく見込みは少ないでしょう。



いくつか気に留めたほうが良いことがあります。

まず第一に、「問題行動」あるいは「特徴的な行動」は本人なりに状況に適応しようとしている行動なことが少なからずあります。
ただ単にそうした行動をなくすことだけを目指しすぎて、その行動の根底にある、本人なりの適応を目指す動きを見逃してしまわないように。

そして第二に、「弱み」や「苦手さ」は、時として「強み」と表裏一体の反面なことが少なからずあることです。
たとえば、「不安が強く慎重な子」は「慎重・堅実な子」とも見えるし、「注意散漫な子」は「好奇心旺盛で感度が高い子」とも見えます。
「弱み」と「強み」、見方を変えれば同じものだったりします。

こうしたことを踏まえてもう一度考えてみましょう。
発達障害を抱えている子どもが持つさまざまな「弱み」・「苦手さ」・「問題行動」・「発達障害に特徴的な行動」を全て取り除くことができたとして、その時その子は「普通の子」になるのでしょうか?
もしかしてその子は、自分なりの対処法も取り上げられ、なんの取り柄も見どころも「個性」もない、何者でもない子になってしまってはいないでしょうか?



言い古されたようなことですが、大切なのは欠点を潰すことではなく、その子の強みを引き出すことです。
強みとは、別に「特に人と比べて優れているところ」という意味ではありません。
その子の中で、強く表に出ている部分、ということです。

この「強み」ということはなかなかイメージされにくいので、少し脱線してある心理テストを元に考えてみましょう。



昨年の夏、私のタイムラインで 16Personalitiesという心理テストがちょっとしたブームになりました。
心理テストと言っても、誕生日やTwitter IDから何かの結果が振り出される「占い」のようなものではなく、多数の質問項目についてどのように答えるかで性格傾向を見る、まぁまぁしっかりとした作りの心理テストです*1

この心理テストの背景にある人格理論では、以下の4つの軸を想定しています。

  • 内向型 (I) または外向型 (E)
  • 直感型 (N) または感覚型 (S)
  • 思考型 (T) または感情型 (F)
  • 判断型 (J) または知覚型 (P)

詳しくはリンク先を見ていただくとして、この心理テストでは「平均」とか「普通」という結果は考えられていません。それぞれの軸について、多かれ少なかれ必ずどちらかには傾き、優位な力が4つ見られると考えます。この4つの軸についてそれぞれどちらが優位になるか、という風にして2の4乗、つまり16種類の性格類型を考えてみようというものです。



前回の記事で、「発達障害は障害でもあり、個性でもある」ということを書きました。

一般的な知能検査では、真ん中(平均点)ぐらいの人が一番多く、それよりも低い人・高い人はだんだん少なくなっていきます*2。ある意味では、平均からある程度外れていることを「異常」・「障害」と見るような見方です*3。発達障害を「障害」とする見方は、このように「平均の範囲」から外れていることを問題としています。

それに対して、この性格テストのような例ではタイプの別はあれど、そこに優劣や平均はありません。発達障害を「個性」と見る見方は、このようにタイプごとのあり方を見ようとするものです。
それぞれのタイプは良い方向で発揮されればこうなる、その反面で悪い方向で発揮されてしまうとこうなる、という風に考えることができます。

「個性」の部分だけを取り上げて「障害」の部分に目をつぶってしまうと、現実的なところでつまづきの元になってしまうかもしれませんが、このようにタイプとしての良い面を見ていくことで、他人との優劣ではない形で、その子の「強み」を考えることができます。
言い方を変えると、その子がどういったタイプ・形の子かということを考えていくことで、勝ち負けや何かの数値の高低を比べる以外の評価の仕方ができます。

知能検査のように数字で結果がでるものはある意味でわかりやすいですが、実際にはほとんどの場合、人にとって大事なのは質的な評価の方ではないでしょうか?



昨日今日あたり、タイムラインで子どもへの障害の告知・自己理解の話が盛り上がっていました。
こと発達障害の告知ということに関しては、まずは自分自身のタイプということを知っていくことがベースであってほしいと私は思います*4
その上で、他の人と比べた相対的な評価というのも自覚していく必要はありますが、まずはタイプという絶対的な面を元に自己理解の道に入っていってもらえたらと願います。

ちょっとここでマンガの話をしましょう。
ある心理士の友人に勧められて『ベイビーステップ』というマンガを読んだのですが、これはまさしく自己理解の話だと感じました。
テニスを題材とした、少年誌で掲載されているマンガなのですが、この作品で主人公の成長に一番密接につながっているのは「努力」でも「友情」でもなく、「自己理解」なのです。

元々ガリ勉タイプの主人公がひょんなことからテニスを始めるのですが、初めは運動はからっきしです。その主人公が身体能力・技術・キャリア・経験、あらゆる面で自分よりも上手な相手に勝つために、自分のできないことをありありと見つめ、自分の持っている数少ない強み*5をどう活かせるかを考えぬいていきます。

こうやって書くと一見あたり前の話のようですが、この作品では相手もみんな自己分析をしていることが丁寧に描かれています。
そしてその結果として、全員が一人一人違うスタイルを身に着けていって戦っていることが見えるのです。
それは本人の体格や、好みや、指導者などによって一人一人違った形に作り上げられてきたものであり、一つの平均とか理想形とか普通というものはそこにはありません。
そして、相手との勝負を通してさらに自己分析をしていくことが成長の契機になっています。



発達障害ということも一回抜きにしてしまいましょう。

特に発達障害というほどのものを抱えていない人であっても、あるいはそうした傾向が自分にあるかもなと思う人であっても、いずれにせよ私たちのほとんどは「天性の才能」というようなものは持っていません。

スヌーピーの名言としてよく出てくる言葉にこんなものがあります。

配られたカードで勝負するっきゃないのさ… それがどういう意味であれ
You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means

こうした言葉を、単に、人は甘んじて自分の限界/障害を受け入れなくちゃいけない、と読むのはもったいないと考えます。
それよりも、配られるカードはみんな違うからこそ、どういう自分(役)を目指していくかも一人一人違う、という風に読んではどうでしょうか。

こうやって、特別でもない、欠点も多々見つかる、なかなかどうしようもない自分のことをまざまざと見つめるというのは決して楽しい・愉快なことではありません。苦しいです。できればしないでおきたいぐらいに。

でも、特別な才能というようなものを持たず、お花畑のようにすばらしい「個性」というようなものも持たない身であっても、
自分の人生の中での様々な経験を積み、他の人と関わり、自分の考え方・感じ方のくせに気づき、そうした自分をどういう方向に成長させていきたいかを考え、マイナスの感情が募りすぎないようにうまく舵取りができれば、
そうすることで、本当の「自分らしさ」とか「魅力」というのが磨かれていくのではないでしょうか。

そこでは何かの「障害」のようなものや、あるいは他人との優劣というのは一旦脇に置かれます。
あるいは「障害」とか、苦しい体験とか、一見「人生の回り道」のように見える様々なことが、かえって深く自分自身と向き合い、自分ならではの形を掘り出していくために大きな働きをすることもあるかもしれません。



マイナスのことをなくすことや、「普通」になることばかりを目指しすぎて、こうした自分自身と向き合うことを邪魔してしまうのはもったいないと私は考えます。

「ありのままのあなたでいいんですよ」というような言い方は、その子が「ぼくは、ぼくじゃなくて『普通の子』にならなくちゃ」というような呪縛に囚われているようなときには、必要でしょう。

スヌーピーの別の言葉でこんなのもあります。

自分以外の人間になりたいと願いながら、人生を送るのは耐え難いって
He says it’s terrible to go through life wishing you were something else.

でも、もし「いまのままのあなたでいなくてはいけませんよ」というなら、それは大きなお世話でしょう。「ありのまま」とは成長しないでいい、変わらないでいいということではありません。

ドクター・スースというアメリカの絵本作家・児童文学家の人がお誕生日のメッセージとしてこんなことを書いています。

あなたはまたあなたになったね。どんな本当よりも本当のこと。あなたよりもあなたなひとなんて、この世に1人もいないのだから
Today you are You, that is truer than true. There is no one alive who is Youer than You.

障害をなくすことよりも、「普通」になることよりも、もっともっと、その子自身、あなた自身になっていくプロセスを歩んでいけるようにと願います。

*1:意識的に回答を操作できる点と、こうした理論が本当に妥当性を持つかどうかの検証が難しい点があるため、「まぁまぁ」です

*2:正規分布をすると想定されています

*3:極端にIQが高く、かつ発達の凸凹があると「2E」twice exceptionalといってspecial educationの対象となります

*4:子どもにさっきの16Personalitiesをさせてください、という意味ではありません

*5:この自己分析能力と相手の分析能力に主人公補正がかかっています