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@dicegeistのlog

体罰に依存しないで済む特別支援教育であってほしい

Twitter連投より)

www.sankei.com
このニュースに関して、「生活上のしつけをしただけなのに体罰だなんて!」「特別支援学級体罰無しでの指導なんて夢物語」との旨を書いている人たちがいました。

「こぼした麦茶を拭かせた」ことが体罰とされたんじゃなくて、
その子が障害特性のために感情のコントロールに時間がかかっていることを理解せず、抵抗している状態で力ずくである動作をさせたことに伴い怪我をさせたことが体罰とされたんでしょう。

療育センターで、(地域の小学校の特別支援学級ではなく)特別支援学校に進むことになるより障害程度の重い未就学児のお子さんたちを直接見ていた私自身の経験では、
「『体罰』無しでの学級運営」なんて夢物語でもなんでもないですよ。大前提。体罰を用いないと身につかない、のは思い込みでズレてる

言葉でのコミュニケーションがまだ身についていない子であれば、その子の体に手を添えて、手をかけて何かを伝えることはもちろんあるでしょう。
でも、それは「何か危険なことをしようとしているのを『止める』とき」や、あるいは「本人が聞き入れる体制になっているときに体の使い方を教えるとき」。

そうやって、聞き入れる体制になっていない状態で、力ずくでなにかをさせることを正当化したことが、
その子が力ずくで反発・抵抗することを助長しているということに気づかないほど、余裕がないのか。
力で押さえ込んで教えることは、一時的に
うまくいった気がしても、長期的にはマイナス。

何秒か、何十秒か、子どもの気持ちの受け入れ態勢が変わるのを待つことができないと、力ずくになる。

理想に燃えた先生が言うような「子どもはみな同じ可能性を持っている。『愛』を持って伝えれば必ずわかるはず」という見方に私は反対です。
一人一人わかりやすい伝え方や、成長のペースの違いがある。
そこを踏まえないで「今すぐにこれをさせて教えなくちゃ」と近視眼的になるのは「愛」ではない。




忙しすぎて、さらに閉じた人間関係の中にいると、自分の「あたりまえ」とか常識とかを振り返ることができなくなる。

自治体によって程度の差はあるだろうけど、支援級の先生が専門的なトレーニングを受け何かの資格を持っている率は決して高くないし、配属前の「研修」もごく限られたものと聞く。

昨晩も書きましたが、個人としての先生がどうこうではなく、システムの不備。

2歳や3歳から療育に通ってきた保護者と比べて、「知らない」先生がいるのも、制度的・構造的なもの。

仕事も定時なんてあってないような世界の超多忙さで、勤務時間外に自己研鑽をなんて望めない。

先生も人間。

例えば特別支援学級に先生が3人いるとして、誰か一人が出たあとに代わりにそこに配属になった先生は、
規程の研修なんかもあるかもしれませんが、その支援級に元からいた2人の先生にあれこれ聞きながら、その支援級の中での「あたりまえ」が標準だと思いながら経験を積んでいくことになるでしょう。

「誰かが悪い」というよりは、孤立し、閉じている構造がネック。
特別支援学校の地域サポートとか、教育委員会特別支援教育担当のサポートがうまく回っていればラッキー。

そこで学校とか先生とかを非難したり叩いたり攻撃したりすると、ますます溝は深まる。
考え方の否定と、人の否定は違う。



そもそも、学校というところでは「達成度」「習得度」のようなものを評価することはあっても、
その前の子どもの状態を評価すること、
つまり、認知機能の凸凹としての得意不得意とか、
これまでの知的発達のペースから推測されるここからの発達のペースの見込みとかを見立てるという概念がない?

そのために「この子にはなにをどうやって教えよう」ではなくて、「この学年の子どもにはなにを教えていきたいか」がメインになる?

そしてそのために、学年間の引き継ぎとか、外部で行った発達検査・知能検査とかを、「先入観を持つのは良くない」といって、あまり取り入れようとしない先生がいる?




体罰肯定論の人をぶんなg…じゃなかった、折かn…でもなかった、身体的に教育的指導を行ったら、その「体罰肯定」という不適切な考え方を改めさせることができるか、という重大なパラドクスに足を突っ込んでしまわないように。

無暗な負担の押し付けは避けないといけないけど、特別支援学級ですら子どもに合わせた指導という発想が持てないのなら、「緩やかに」どころか未来永劫多様性社会など来ませんよ。
自分の常識が通用しない相手を理解しようとしていないのだから。

指導のためには教師が体罰を用いても構わないと主張する人は、
家で子どもを殴りつける児童虐待も「しつけの一環」と主張することでしょう。

そうした方は、子どもの逸脱行動はゼロトレランス方式で許容しないのに対して、自らの暴力行為は「しつけ」と称してなあなあにしてごまかす卑怯者かも。

学校の先生方が、無給での時間外勤務や部活顧問強制のような制度面での不備のために過重労働となっていることや、一部の変な先生がやる変なことで過度の一般化をされて非難にさらされ続けることは、しかるべく改善されていってほしいものです。
先生方はとても大変。

でも、体罰は是認できません。

主導権争い、権力闘争、正義論争にならない双方向的なコミュニケーションがあたりまえに広まっていくことを願います。

http://twilog.org/dicegeist/date-160124/ascより。