障害を抱えた人の「努力」のための「理解」について
(Twitter連投より)
発達の凸凹がある・障害があるってことは「努力しないでいい」ではないし、「努力することが無駄」でもない。
気にとめるべきなのは、「努力すれば必ずできる」でもないし、「できないのは努力が足りないから」でもないということ。
努力をするのは本人で、それを邪魔も押し付けもせず、応援をする。
ここらへんの塩梅がうまくいかないと、努力が見えやすい形で身を結んだ子や親だけを持ち上げ、そうではない子や親を貶めるようなことになる。
「できそう」「やれそう」「やってみたい」「できるようになりたい」「がんばりたい」をどうやって引き出していくか、がカギ。
それまでにその人があきらめていたようなことでも、こうした刺激がうまくハマれば、「がんばってできるようになりたい!」になる。
そのために、スモールステップで成功体験を積みやすくして、本人の眠っていた意欲を引き出すことをねらう。
元から「ない」意欲は、引き出しようがない。
でも、「なさそうに見えて、実は奥に眠っている」意欲は、結構ある。
それを、脅かさないように、過度のプレッシャーにならないように、ていねいに誘い出していく。
発達早期に大事なのは、
「わからなかったことが、わかるようになった。できなかったことが、できるようになった。難しいかと思ったことが、がんばったらできた。
それが自分自身で嬉しいし、誇らしいだけでなく、自分の信頼する周りの大人も同じように喜んでくれる」
という経験を積むこと。
こうやって、本人の達成感や自信に、周りの大人が寄り添い共感することが、信頼感の貯金になっていく。
この貯金があることで、子どもは自分があまり自信を持てない・関心を持てないことでも、大人の後押しでやってみよう、がんばってみようと思えるようになる。
多くの子どもたちは、微笑むこと、おもちゃに手を伸ばすこと、ハイハイできるようになること、立って歩けるようになること、話せるようになること、だんだん複雑な遊びができるようになってくこと、
こうした発達のプロセスを進む中で、達成感と大人からの共感を得て、自然にこの貯金を作っていける。
だから、ちょっとやそっと大人が大雑把な対応をしても、なかば無理やりに勉強を進めていっても、一個一個のハードルを乗り越えて、その先の世界を見つけていく。
でも、発達のペースがゆっくりだったり凸凹していたりして、うまく自信を身につけられなかったり、共感されなかったりした子は苦しい。
がんばれる、ガマンできる、気持ちを切り替えられる、こうしたことは全部それまでに大人が自己効力感や共感の贈り物をしてきたことが元手になっている。
だからその子がどんな子か、今どんな状態を見極めなくちゃいけない。
ずっと手入れされてないやせ細った土なのか、肥料があり余っている土か。
失敗しにくい状況を整えてあげることが必要な場面もあるし、あえて厳しくしたほうがよい場面もある。
子どもによっても違うし、タイミングによっても違う。
だから「子育ては/療育は/教育は、こうすればいい」という1つの正解はない。
思い込みに囚われず、そこを見極めていかなくちゃいけない。
無責任・無思慮な「努力しろ」「ガマンしろ」で、元から底をつきかけているエネルギーを枯渇させたり、なけなしの貯金を際限なく浪費するのは、ただただ残念。
収支のバランス考えること、特に大事なのは先払いすること。大人目線で「ほめる」よりも、その子の好きなことに共感する方が良い。
わかったようなことをいう大人ではなく、その子の「理解者」がどれだけいるか。
止めようとしても止められない・やると落ちつく常同行動を、
本人は苦しく・周りはめんどくさいこだわりや感覚過敏を、
悪気なく食い違ってしまうコミュニケーションを、
どれだけ気をつけても抜けちゃう不注意を。
こうしたことは「障害かどうかのチェックリスト項目」ではない。
その人が、なんとか気持ちを保とう、うまくコミュニケーションをとろう、失敗しないように気をつけようとしている、適応の、努力の形が、一人一人の現れ方をしているもの。
そうやってちゃんと「理解」されれば、ちゃんと頑張れる。
「○○障害に特徴的な行動」とは何かができないことではない。なんとかしようとしてうまくいかなかった形のこと。
そこを踏まえないで、それを問題行動としてみなしてただなくそうとしたり、あるいは「障害を治そう」としたりすることは、その根っこの、なんとかしようとしていることを否定してしまう。
「障害への理解」とか「障害を抱えた人が努力すべきかどうか」とか「寄り添うこと」とか「成功体験」とかについて、こんな風に考えています、という話でした。(全15ツイート)
dicegeist(@dicegeist)/2016年01月25日 - Twilogより。
以下、連投にあたって私が触発されたツイートたちです。
息子はプラレールで遊ぶ時、床に這って電車の高さに目線を合わせて遊んだ。「自閉症の子は回る物が好きだから車輪が回るのを楽しんでたのかな」って思ってたけど違ってた。「だってホームで電車を見る時上からじゃなく正面から見るでしょ。僕にとってはそれが電車なんだよ」って。素敵な視点だよね☆
— チャビ母 (@chubby_haha) 2016, 1月 24
発達障害の子たちへの療育ってゴールってなんだろう?きっと大まかなゴールは「できるだけ困難なく生活できる」って事なんだろうなとは思うけど、「普通」を強要することで「その子達が本来持つ発達障害ならではの定型発達の人にはない良さを犠牲にしてまいか?」を自問し続けるのは大切かもしれないな
— チャビ母 (@chubby_haha) 2016, 1月 24
息子は乳児の時からよく絵本を見ていたので、知り合いのママさん達は「絵本好きなんだね。いいな。うちの子は全然読まなくて」などと言った。
だけど息子は自分の好きなものの絵にしか興味がないので読み聞かせは全く聞かないし、そもそも一番好きなのは絵本よりも説明書や文庫本だった。
— きいろ (@sora_mamecco) 2016, 1月 24
説明書(主に家電)は実物とのマッチング、文庫本はページの数字を追うのが好きだった。
そして紙芝居では話そっちのけで裏側(読み手が見る側)ばかり見ていた。
ストーリーへの関心が薄い。
これは息子に対して抱いていた数々の「他の子と違う」という違和感の中でも未だによく覚えている話。
— きいろ (@sora_mamecco) 2016, 1月 24
当時は「絵本をたくさん読み聞かせしないと情緒ガー」とか思ってたけど、まぁ押し付けるもんでもないわな。
好きなことを好きなだけやってすくすく育て、息子よ。
というわけで最近の息子の「読書」は、もっぱら説明書と図鑑の類いです。
説明書の人気が根強い。
— きいろ (@sora_mamecco) 2016, 1月 24
どんなに手帳を駆使しようがリマインダーを使おうが越えられない壁がある。無意識で忘れてしまうことに意識で対抗しようとしても限界を感じる。
人間は脳からの命令で動くがその命令は意識して出せるものじゃない。人間をコントロールする脳を人間の意識でコントロールしようなんて無理だよ
— きゃたまそー(今日だけ画像変更) (@tamatama1127) 2016, 1月 24
@tamatama1127 このどうしても越えられない壁が障害なのかも。
— きゃたまそー(今日だけ画像変更) (@tamatama1127) 2016, 1月 24
忘れることからは逃れられないから、忘れることを前提で、忘れても思い出せる工夫を身につけねばなあ。
私の忘れる障害を個性と言える日はくるのだろうか
— きゃたまそー(今日だけ画像変更) (@tamatama1127) 2016, 1月 24
支援者「これらの課題にどのようなスモールステップが考え…
医師「あのね、本人がやりたくもない課題にどんなスモールステップ考えてもダメよ」
支援者「ぐう…」
というのを見た事がある。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
@Koukakurou 本人がやりたいと目を輝かせるような課題、または、クリアしたいと思っているけど挫けてしまっている課題にそっと橋をかけるのが、、スモールステップだと思う。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
@Koukakurou 不安の強い子供を見ていて、1つの失敗が酷く後を引く経験をしている事が多く、失敗をリカバー出来る様に組むのがスモールステップだと思う。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
@Koukakurou 支援者の考えた課題をクリアさせるためのモノではないと思っている。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
@Koukakurou 私は専門家じゃないから、本来はどういうものなのかはわからない。でも、さあ皆と同じ様にやりなさい。スモールステップを細かく刻めば出来るんだから…と、ザックリやられると、うーんうーんと唸ってしまう。
— スナック黄のママ (@Koukakurou) 2016, 1月 24
ディスレクシアだからといって、本を読もうという姿勢や鉛筆で書こうとする姿勢まで「無駄」と言いきる人は信用しない方がいいですね。無駄と他人が言おうが、その中に自分を育ててくれる素材は確実にありますからね。
— 南雲 明彦 (@nagumo11) 2016, 1月 25