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翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その6)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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カーマイン・ディフローリオくんも、フェインの研究で取り上げられた「最良の結果」の少年の一人です。幼児期には彼は何もきこえていないようであり、母親が反応を引き出せないかとわざと横で重たい本を落とした時にも、全く反応を示さない子どもでした。その代わりに彼は自分の中の世界にどっぷりと入り込んでいるようであり、飛ぼうとするかのように手をパタパタさせながら跳びはね、「ニーーーー!」と繰り返し叫んでいたのです。そしてそうではあるものの、不幸そうではありませんでした。

カーマイン君が2歳で自閉症の診断を受けた後は、自治体が提供する週3時間の療育を受け始めたのに加え、建設業を営む両親は週4時間の療育を自費で受けることにしました。その時のセッションのビデオで、セラピストがカーマイン君に身の回りのものの絵を見せて言葉を教えようとしている場面が残っています。牛乳の入ったグラスのカードが示されますが、カーマイン君の視線は泳ぎます。注意を引こうとして膝をたたき、名前を呼び、顔を動かす彼の目の前になんとか写真を差し出そうとします。彼はセラピストの向こうを透かして見ているようです。「ぎゅううううううにゅうううううう」とゆっくりと発音して見せます。目の前に写真を突き出して、自分の方に向くように彼の顎をぐいっと向けます。それがうまくいかないと、「注目!牛乳!」とまるめこもうとします。頭をつかんでセラピストの方を向くようにくるりとまた回します。「うーにゅ」とカーマイン君が声を出すと、「よくがんばったね!牛乳!」と応えます。その次には簡単な指示に従うことを練習させようとする場面です。「こうして」と自分の太ももをたたきながらセラピストが言います。すぐには何もしなかったものの、少しして彼は手を上げ、ひざにその手を落とします(訳註:ひざを叩くのと太ももを叩くのとを区別するのか・・・)。いい線いってます。「イエイ!」セラピストが叫びます。「いい子だねー!」と彼をくすぐり、喜んでキーと声を出します。

他のセラピストとのセッションでは、カーマイン君は練習をしたくない時に体を揺すりました。そうでなければ体をピョコピョコ上下させたりも。手をパタパタさせることもあります。これはセッションの中で興奮した時や、イライラした時、混乱した時、熱中したときによくする身振りであり、セラピストはそれを手で押さえます。こうしたものを見るのはあまり愉快なものではありません。当時の一般的な考え方としては、そのことに子どもが没頭してしまい、他の子どもを寄せ付けなくなってしまう恐れがあるために、反復動作は徹底的になくさなければならないというものでした。(こうした見方は今でも一般的ですが、子どもの動きを抑制する代わりに、多くの臨床家は別の動作へと置き換えていこうとします。一部の臨床家は、子どもの集中を妨げないようであれば、単にその動きを無視します。)

発達の遅れを持つ子どものための療育施設に通年のフルタイムで使い始め、そこで丸々一日集中的な行動療法を受けるようになって、カーマイン君はより速く吸収していきました。5歳になるひと月前の時に、複数の検査からなる評価報告書が家に届けられました。そこでは、彼のコミュニケーション、行動面、感覚面、社会性、日常生活スキル、手の巧緻性は定型発達の子どもと同レベルになったということが検査結果として記されていました。遅れていたのは、粗大運動能力だけになっていたのです。他の特記事項として、興奮した時に手をパタパタさせたり跳びはねたりすることがあると書かれていました。それについては、教師たちは「興奮をあらわすためのより適切な手段、例えば拍手することや人とハイタッチをすること」に置き換えていくよう促しました。幼稚園に入園する前には(訳註:日本で言う2年保育か1年保育?)、カーマイン君を診断した神経科医は彼にあってショックを受け、自閉症の特徴は基本的になくなったと明言しました。

カーマイン君は手のパタパタをやめさせるために周りの人たちがあれこれと奮闘したことを覚えていません。「なんで興奮が手のパタパタになっていたのかも思い出せないよ」と彼は付け加えます。「でも、どれだけ興奮していたかはハッキリと思い出せるんだ」。また、彼が6、7歳の頃にパタパタを妹にからかわれたこと、そしてそれからその衝動をコントロールしようと決めたことを覚えています。「パタパタしたくなったときには、手をポケットに入れるんだ。自分で思いついたんだと思う。2年はずっとイライラしてたよ。まるでニコッと微笑んだら、誰かに微笑んだらいけない、それは間違ってる、って言われるようなものだったから。でも時間が経つとしゅうかんになるでしょ。10歳か11歳ごろには、パタパタさせたいと感じることさえなくなったよ」。

幼少期のビデオで見たカーマイン君と、数か月前にあった19歳のカーマイン君とを重ね合わせるのは難しいです。今では、カーマイン君は快活で社交的で、目の合わせ方ややりとりの仕方に特徴的な身振りやくせは全く見られません。この秋にはボストンにあるバークリー音楽院の2年生に進級します。友だちのことも、授業も、一人暮らしの自由も、全てが大好きだと彼は話します。

その彼に、自閉症だった時のことを懐かしく思うことはあるか聞きました。「あの時のような興奮はもうないのがさびしいんだ」と彼は言います。「僕が小さかった時、僕はしょっちゅう最高に幸せだったんだ。体中をかけめぐり、内にとどめおけないほどの、究極の喜びだったんだ。それが、妹が僕をからかって、パタパタは人から見たら受け入れようがない変なことなんだと気づいた時に、消え去っちゃったんだ。今では本当にいい音楽を聞く時が、その時の喜びを感じる主な時かな。その喜びは今も体中で感じるけど、前してたように外に向かって見えるような出しかたはしないんだ」。

カーマイン君の母親のキャロル・ミグリアッキオさんは、小さかった頃、彼の成長を見るのがとてもワクワクするようなものだったことと、でもその後で彼のしている経験がどれほど普通じゃないかを痛いほどに気づかされていったことを話してくれました。はじめ、カーマイン君が療育施設で急速な進歩を遂げた時、両親はおおっぴらにその喜びを話さずにはいられなかったと言います。「その時の私たちは、こんな風でした。『ああ神様!ケーキを分けたわ!しゃべってるわ!よくなって行ってるのね!』と」。しかし彼の療育仲間のほとんどは、ずっとゆっくり成長していることにもすぐに気づいたのです。「後ろめたかったわ。この子は山を登って、他の子は登っていないの。一つの教室に7人の子どもが、おんなじ先生たちといて、自分の世界でまだグルグル回っている子も、まだ喋らない子も見えちゃうの。申し訳ないばかりになるの。他のお母さんたちから『私がしていない、一体何をしてる?』と聞かれるでしょう。でも何も答えられないんだから」


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翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その5)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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一部の人たちは、自閉症を根こそぎなくすことが最良の結果だという考え方を否定しています。自閉症者による自閉症者のための団体である自閉症者セルフ・アドヴォカシー・ネットワーク代表のアリ・ニーマン氏は、「自閉症は治療を必要とする病気ではありません」と語ります。自閉症者に特有の資質が、たとえ世界のほかの人々にとっては変わったもののように見えたとしても、価値あるもので、彼らのアイデンティティーの一部であることを忘れてはならないといいます。たとえば動物学者であり、執筆者でもあるテンプル・グランディンは、自らの優れた空間認知能力や細部への徹底的な集中力を自閉症のために持っているものとしており、そのおかげで名高い人道的屠畜場を設計することができたのだといいます。

ニーマン氏や彼と同様の主張をする人々も、コミュニケーションを改善し、認知・社会性・自立生活スキルを伸ばすための療育については、強く支持しています。しかし、自閉症を丸ごと消し去ろうとすることに重きをおこうとすることに対しては深い憤りを覚えるのです。一体なぜ、自閉症でなくなることの方が、自閉症者として自立した生活を営み、友人と仕事を持ち、社会に貢献する一員として生きることよりも「良い結果」だというのでしょうか。どうして手をヒラヒラさせたり、視線が合わないことの方が、「良い結果」であるかどうかを考える時に、プログラミングができることや難解な数学の問題を解けることや、魅力的な曲を作れることよりも重大なことになるのでしょうか。どんな証拠を元に、自閉症の診断を失った人の方が、自閉症のままである人よりも成功しているとか幸せだとかというのでしょうか。

ニーマン氏は語ります。「私たちの脳の配線を根っこから全て繋ぎ直して、考え方や世界との関わり方を変えるなんてことはできないように思います。そんなことがもし可能だとしても、それは倫理的に正しいことではないでしょう」。彼や同様の主張をする人々は、自閉症とは同性愛や左利きであることと似ていると主張します。違いではあるけれども、欠陥でもないし、病的なものでもないと考えます。この見方は1993年にジム・シンクレア氏という人が、自閉症児の親たちに宛てた公開書状でかくも印象的に著したものであり、のちに神経多様性運動と呼ばれるもの火付け役となりました。「あらゆる感覚や、知覚、思考、感情、出会い、その他あらゆる存在の側面を色付けるものなのです。自閉症をその人から切り離すことは不可能です。そしてもし可能であるにしても、切り離された残りの人は元々の人とは別人でしょう。・・・それゆえに、親が『子どもが自閉症を抱えていなかったらよかったのに』という時、その本当の意味は『私たちから産まれたこの自閉症の子どもが存在せず、別の(自閉症じゃない)子どもが代わりに産まれていたらよかったのに』ということです。・・・あなたたちが治療方法を切望する時、私たちにはこうした声がきこえます」

また、社会が自閉症を押し潰そうと努めることは、同性愛を抑圧しようと努めてきた歴史と軌を一にするものであり、同じように有害なものであるとニーマン氏は語ります。60年代、70年代にロヴァースの研究チームが、「偏向した性役割行動」を示す少年たちに対してABAを用いたことを彼は指摘します。その一人はロヴァースがクレイグくんと仮名をつけた4歳の男の子であり、「女々しい」歩き方・仕草をして「男性的な活動」をイヤがったと記しています。ロヴァースは、「男性的な」行動を報酬で強化し、「女性的な」行動を罰を使って消去しようとしました。この子が同年代の子どもたちと「見分けがつかなくなった」として治療は成功したとロヴァースは考えました。数年後、このクレイグくんはゲイであるとカミングアウトし、38歳の時に自殺します。彼の家族は、この治療のせいだとして非難しています。

神経多様性運動の推進者たちは、行動療法が自閉症者たちの幸福な暮らしのためというよりも、他社の快適さのために設計されている側面があることに苦しめられています。自閉症の子どもはしばしば、手をひらひらさせる代わりに「お手てをそっと」しておくことを報酬で強化されます。奇妙に見えてしまわないようにする、というこの優先順位付けを、運動の推進者たちは迫害的だと感じます。ニーマン氏はこんな例も教えてくれました。「私たちにとって、目を合わせることは不安を引き起こす経験です。なので、誰かの目を見ないようにしようという私たちの自然な傾向を抑え込むことはエネルギーを消耗することであり、そこにエネルギーを費やさなければ、相手の人が何を話そうとしているのかをよりじっくりと考えることに使えるかもしれないのです。自閉症の若者たちの間でとても有名な言葉があります。『ちゃんと話を聞いているように見せることもできるし、それとも本当に話を聞くこともできる』と。残念なことに、多くの人々は私たちに、ちゃんと聞いているように見えることの方が、本当に話を聞くことよりも大事だというのです」。

ゲイの人々が同性愛を「治した」と言われることが、彼らの本当の自分自身を隠しているだけにすぎないのと同じように、自閉症ではなくなったと見られる人はうわべだけ素晴らしくしているのにすぎず、その幻想のために心理的な対価を払っているのだとニーマン氏は主張します。例えば、自閉症運動の推進者たちは、フェインの研究で「最良の結果」とされた人々のうち5分の1に「過剰抑制、不安、抑うつ、不注意や衝動性が見られ、きまりの悪さや時に敵意を抱いている」としてきします。

その一方でフェインはこうした解釈に疑問を投げかけます。確かに自閉症ではなくなった人々も、自閉症とはよく並存する心理的な脆弱さを残していることを認めています。しかしながら、「最良の結果」とされる人々は比較対照グループの高機能自閉症者たちと比べて、抗うつ剤や抗不安剤、抗精神病薬を使う確率が低いと、フェインはのちの研究で見出しています。ロードの研究においても、以前は自閉症だったもののそうではなくなった人が、同等のIQの自閉症者たちと比べて、精神科的問題を抱えることが少ないと、同様に見出しています。

もちろん、こうしたことは自閉症者が自閉症ではなくならなければいけないとか、世界との関わり方を典型的なやり方ではないからというだけの理由で変えなければいけないとかということを意味するものではありません。それでもなお、自閉症からあたかも脱皮していくかのように変化する人々が実在することが明らかな以上、自閉症児の親たちが子どもの自閉症がある日なくなるかもしれないという希望を抱かないはずはないのです。


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翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その4)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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かつて自閉症を抱えていたが今やそうではない人々の脳に一体何が起きたのか、それを確かめられた人はいません。例えば、そうした人々の脳は元々自閉症の子どもの脳とは違っていたのか、それとも脳は元々同じようなものだったけれど治療のために変化したのか。しかし、自閉症の子どもを対象としたジェラルディン・ドーソンによる近年の研究では、自閉症者の脳がいかに変化しうるものかが明らかにされています。先行研究の中では、自閉症の子どもは女性のカラー写真を見たときよりも、おもちゃのカラー写真を見たときの方が脳の活動量が増すことがつきとめられています。その写真が子どもの母親のものであったとしても、この結果は同様なのです。定型発達の子どもはこの反対の状態を示し、言語や人付き合いに関する脳の領野が自閉症児と比べてよりよく発達します。

ドーソンは、自閉症児が声やジェスチャー、表情などに注意を向けるようにし向けていくと、脳の発達も変化してくるのかどうかを疑問に思い、調べました。彼女は治験結果を元に2012年に論文を発表しています。その中では、自閉症の幼児を二つのグループにランダムに振り分け、成長経過を追いました。一方のグループに対しては社会性の向上を目指した週に25時間の行動療法を実施し、もう一方の比較対照グループについては居住地で受けられる一般的な療育(行動療法的なものも、そうでないものも含む)のみとしています。2年後に行った脳波検査の結果では、比較対照グループ(一般的な短時間の療育のみをうけたグループ)ではおもちゃなどの画像刺激により強い脳活動の反応が見られたのに対し、社会性強化グループ(週に25時間の行動療法を行ったグループ)では定型発達児と似た(人の顔の画像に対してより強い)脳活動の反応が見られたというのです。この結果からすると、彼らの脳は、まさしく、変化したと言えるように思われます。その子どもたちは自閉症のままではあるものの、IQが向上し、言語・社会性・日常生活スキルの面で改善が見られました。これに対して、比較対照グループの子どもたちの成長は目立って少ないものでした。

この実験結果が、自閉症ではなくなった人々のケースとどう関係しているかは定かではありません。多くの研究で、早期の集中的行動療法が自閉症の症状を著しく緩和することが示されているものの、そうした療育を受けている子どものほとんどは、成長のほどにもかかわらず自閉症のままなのです。そしてその一方では、そうした療育をうけていないにもかかわらず、自閉症ではなくなる子どもがいるのです。前述のロードの研究では、自閉症ではなくなった8人の子どものうち、集中的な行動療法を受けていた子どもはわずか2名だけでした。というのは、研究が行われた当時のその地域では、そうした行動療法をメインとした療育は簡単には受けられないものだったためです。

また、前述のフェインの研究では、自閉症ではなくなった子どもが行動療法を受けていた割合は、自閉症のままであった子どもが行動療法を受けていた割合のおよそ2倍でした。そうした子どもは、より早い時期に療育を開始し、より多くの時間の療育をうけていたという傾向も見られています。しかし、フェインの研究においても、自閉症ではなくなった子どものおよそ4分の1は、全く行動療法を受けていないのです。その一人のマット・トランブレーくんは2歳で自閉症と診断され、7、8歳まで言語療法・作業療法・理学療法を受けましたが、行動療法は受けることがありませんでした。彼の母親が回想して語ることには、小児科医が一度も提案することがなく、ニューヨーク州北部の小学校で行動療法が提供されていなかったからだということでした。

マットくんの症状で初めに改善していったのは言葉でした。しかし、多くの紛れもない自閉症の症状は続いていました。正確さや秩序への強迫的なこだわりがあり、彼は5人家族全員の予定や約束を常に暗記し、誰が、どこに、いついなければいないかをそらんじていたのです。母親のローリーさんはこう語ります。「誰がいつ家を出ないといけないかまでキッチリ計算してたんです。『全員あと3分で出発します』って。」

言葉の後には認知面と行動面の成長がつづきましたが、社会的スキルを身につけるのは、多くの自閉症の子どもにとってそうであるのと同じように、長く、困難な道のりでした。中学に入ってもなお、マットくんは考えていることを何でも口走ってしまいがちで、会話の構造を理解するのには長い時間がかかりました。マットくんはこう語ります。「小さかった頃は言葉を発することが難しかったのを覚えてる。イライラしたよ。脳の言う通りに口を動かすのが難しいんだ。あと、6年生になるまで、どうやって人の中に混じったらいいのか、どうやって繋がったらいいのか、全くわからなかったことも覚えてる。学校のホールにいる時や教室へ歩く時、家に帰る時、ずっとうつむいてた。ほかの子と関わることができなかったのか、それとも関わりたくなかったのかも。たぶんどっちもちょっとずつだと思う。」

それからしばらくして、マットくんは場の状況がわかるようになって行きました。「話題から離れちゃいけないんだ、ってようやくわかったのは中1か中2ぐらいの時だったと思う。それに気づいてそうするようにしてから、友だちが増えはじめたんだ。どうしてその時になってパチンとつながったのかはよくわからないよ。」そしてマットくんが中学2年を終える頃、主治医は彼はもう自閉症ではないと伝えたのでした。

今では、マットくんは愛想のいい、おしゃべり好きな、面白おかしい、有望な高校3年生です。楽団でトランペットを吹き、テニスの学校代表の一員で、パン屋で週に15時間から20時間レジ・ウェイター・在庫管理のバイトをして、学業成績も保っているのです。家族や友だちとぶらつくのも楽しんでいます。思春期に入るまでは狂ったようにキッチリ整えていた彼の部屋は今やぐっちゃぐちゃになりました。普通の十代の子どもになった証かもしれないわね、と眉をひそめながらも彼の母親は冗談めかして受け入れているようです。

自閉症の子どもだった時のことをマットくんはいくつか思い出すことができます。どういう風に手をヒラヒラさせていたのか、体を揺すっていたのか。人形の乗ったバスのおもちゃへのこだわりや、何時間も台所をぐるぐる走り回らせる時の深い集中のこと、人形を床にばらまいてはそれを拾い集めていた時のことを。自閉症だった日々のかすかな残響もあります。例えば、今でもきつい洋服や硬い洋服は我慢できないので、ジーンズの代わりにスエットパンツやゆるいカーキパンツを履くこと。また、冗談好きを自認する彼ですが、ほかの人がふざけている時にそのことがわかりにくいことが時々あると言います。小児科の看護師をしている母親は「ほかの人よりも文字通りに解釈することはまだ多いかも」と語ります。「ほかの子が勝手に覚えていくような、人の感情や表情、くせ(しぐさ)なんかの読み取り方を、意識して覚えなくちゃいけなかったからかもしれないわね」

マットくんがテレビで白熱した試合を見ているところをローリーさんが通りがかった時、手をヒラヒラさせていることが時々あります。「ただの自閉症の名残の一つで、きっと簡単にコントロールできるのね」と母親が話していたことをマットくんに話して、そういう時はどんな感じなのかを聞いたところ、彼は仰天したのです。「そういうのは13歳か14歳でやめたはずだよ!」マットくんは、それは母親の見間違い・誤解だと言い張りました。「ほら、スポーツに熱中して見入ってたら、『よしっ!』てするようなやつだよ。誰だって応援してるチームが点を入れたらそうするようなやつだって。」と。


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翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その3)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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16歳の快活な少年、マーク・マクラスキーくんも、フェインの研究で取り上げられた、自閉症ではなくなった子どもの一人です。空いた時間には、テレビゲームをしたり、ロボットを作ったり、プログラミングをしたり、友達と近所の公園をぶらついたりしてすごしています。友達と共同で主催している週刊インターネットラジオには3万2千人のリスナーがいて、その番組ではアプリのレビューをしたり、技術系のニュースについて議論したり、つまらない(本当につまらない)冗談を飛ばしたり、連載コーナーも作っています。

今となってはどこにでもいるようなオタク少年の彼ですが、ここにいたるのには何年もの大変な日々がありました。3歳になる直前に中度から重度の自閉症との診断を受けた彼は当時、周りの誰にも関心がないようであり、言葉もほとんど理解していないようでした。すさまじいかんしゃく持ちで、怒っているように見えないときですら、延々と同じパターンを繰り返すようにプログラムされたロボットのように、壁に頭から突進して倒れては起き上がることを繰り返していました。額にひろがる青あざとは裏腹に、まるで痛みも感じていないようでした。

マークくんの両親のシンシアさんとケビンさんは彼を発達遅滞のある未就学児の施設に通わせ、はじめは高機能児のクラスに入りました。しかし状態は悪くなるばかりで、かんしゃくは増え、言葉はさらに減っていき、数ヶ月としないうちに最も知的障害の重い子たちのクラスへと移ることになりましたた。神経科医からは、いつかは施設入所をさせることになるかもしれないので覚悟するように、と告げられたとシンシアは語っています。

失意のうちに両親はマークくんをやめさせることにしました。家を担保に10万ドルを調達し、人事の仕事をしていて当時家の稼ぎ頭であったシンシアさんが、仕事を辞めてマークくんとフルタイムで関われる体制を整えたのです。インターネット上の情報をあさり求め、危険そうでさえなければ、効きそうなものは何でも試してみることとしました。ビタミンB12の注射を打ち、乳製品除去・グルテン除去・大豆除去の食事療法も行いました。専門家を雇うほどの経済的余裕がなかったため、さまざまな行動療法の本も読み、その中で気に入ったものを元に自ら訓練を受けました。こうしてついに、行政が提供する週に5時間の言語療法作業療法に加えて、週に40時間の行動療法プログラムをこしらえたのです。

最初の何年かはとても大変でした。当時のマークくんは卵を壁に投げつけたり、牛乳を床にぶちまけたりしていたので、冷蔵庫には重い鎖をかけ南京錠でロックしていました。リビングの家具を撤去してエアートランポリンを置き、その周りはゴムの壁で囲んで、マークが自分自身を傷つけずに、思う存分飛び跳ねぶつかり、欲している感覚刺激を得られるようにしました。また、食べ物や飲み物がほしければ、その要求を言葉かジェスチャーか絵カードの指さしをして伝えない限りはもらえないことを、はっきりとさせました。

旧来式の学校では彼の強みをちゃんとわかってくれたり、弱みにの改善に取り組むことは期待できないと考えたため、学校へは行かせず家での教育を行うことにしました。8歳になる頃には言葉と行動は同年代児と遜色がなくなってきましたが、社会的な思考については典型的な自閉症の特徴を残したままでした。最近のビデオチャットの中で彼はこう語っています。「ルールがあることはわかってた。でもどんなルールかを覚えていられなかった。人と関わるときに、何をしたらよいとされていて、何をしてはいけないとされているのかを覚えておくのが難しかった」と。表情やジェスチャーなどの社会的な手がかりに気づくことはほとんどなく、気づいたときにもそれをどう解釈したらいいのかはわからなかったのです。当時の彼は粗雑で、べたべたと接触しすぎ、他人のパーソナルスペースにすぐに侵入してしまっていました。

シンシアはこうした社会性の遅れの改善に着手していきます。マークと一緒にテレビドラマの録画を見て、数分おきに一時停止し、次に何が起こると思うか予想させたり、主人公が何を考えていると思うか、他の登場人物がどうしてそういう反応をしたと思うかを話させたのです。全話を見終えると、次は表情の読み取りの練習ができるように「大草原の小さな家」を見ていきました。マークは感謝しているように語ります。「テレビを見ていたとき、ママの質問に答えるのが大変で混乱したことを覚えてる。でもそれには必ず何か理由があるんだということはわかった。ただ、どうしてそれが役に立つのかはわかんなかったんだ」。

公園でもレストランでも、通りすがりの人の顔を見て探偵ごっこをしました。人々の関係や、感情の手がかりを見つけさせていきました。「そうしたことを他の子のようには吸収できないようだったので、マークが納得するまで、一つずつ全部段階を踏んで教えていったんです」とシンシアは語ります。

ちょうどそのころ、両親がクリスマスプレゼントにあげたロボット製作キットにマークくんは夢中になりました。人付き合いを練習する機会を切望していたため、シンシアさんはロボット同好会を作りました。マークくんと4人の定型発達の子どもが週2回放課後にマクラスキー家のリビングに集まるのです。最初はただロボットを作るだけだったのが、やがて5人はロボットのプログラミングをして大会に参加するようになりました。2年前にはマークくんは世界選手権にまで進みました。その時にはシンガポールから来た少年たちとランダムに割り振られたチームを作り、その場で協力して戦略を練る必要がありました。そうして何回戦かマークたちのチームは勝ち進んだのです。いくつかの根深い社会性の弱点はあるの、もはや自閉症の診断基準は満たさない、と専門家に告げられてから3年が経ったときのことでした。その競技でマークくんがチームメイトとしっかりと協力する姿を見てシンシアさんは涙が止まらず、ホールをそっと抜け出しました。

マークくん自身も、自分がどれほど成長したかを知っています。「自閉症でいることに何も悪いことはないよ。でもそうじゃなくなってからの方が、人生がずっと楽になったと思う。ぼくが思い出せるかぎりずっと小さいときからぼくは自閉症だったことは知ってた。でも自分で自閉症だって感じたことはなかった。ただ「ぼく」でいるだけの感じだった。どう感じるかっていったら、これがぼくに言える全てだよ」(訳注:この辺の訳はかなり迷っています。マークくんが言おうとしていることをどこまでくみ取れているか・・・)

フェインの研究では、元々自閉症だった人々はしばしば残存症状を持つことがわかっている。少なくともはじめは。これには社会的不適応や、ADHD、反復運動、関心のほどほどの固執、原因と結果を説明する上でのかすかな苦手さなどが含まれます。マークくんの場合は、主な名残はオムレツのようにドロドロネバネバに感じる食べ物嫌いと、紙の手触り嫌いとで、こうしたものは今でも避けています。マークくんがかつては自閉症を抱えていたと話すといつも、周りの人は狂人を見るかのような目になるとシンシアさんは語ります。「お医者さんでさえそうです。『まぁきっと誤診だったんでしょう。なぜなら自閉症じゃなくなることはないからです』って。やんなっちゃいますね。マークはすごくがんばったんですよ。こうなるまでにがんばってきたことを全部否定するなんてずるいです。」


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翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その2)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

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自閉症は一生涯にわたる発達障害だと考えられていますが、その診断は行動上の特徴の組み合わせやその織り成す模様を元になされます。社会性の困難や、関心の固着(こだわり)、強迫的・反復的な行動や、感覚刺激に対する極端に強い/弱い反応など。それというのは、これまでのところでは、信頼できる生理学的な指標が発見されていないためです。自閉症の症状は成人期には弱まっていくことがしばしば見られますが、その核となる症状は残るというのが一般的な共通見解です。ほとんどの医師は、自閉症から回復するという考えを、希望的観測にすぎないと却下してきました。これに対して、様々な仮説的治療法がインターネットで喧伝されてきました。ビタミン注射や栄養サプリメント、解毒剤、特殊な食事療法、純酸素で満たした加圧室や、キレーション(体内の重金属を除去するという、危険性のある療法)などなど。しかしこれまでに、こうしたもののいずれかが自閉症の核となる症状を和らげたり、ましてや根治したりするなどということを示す証拠(エビデンス)はありません。

自閉症者が回復しうるという考えは、1987年にABAを開発したロバースが研究論文を発表した時にはじめて根付きはじめました。その研究では、自閉症の未就学児19人に週40時間以上の個別ABAを実施し、行動に構造化されたプロンプトの計画に基づき、報酬や罰を用いて、特定の行動を強化し、ほかの行動を「消去」するというものでした。(また、同数の子供を比較対照群として設け、そちらには週に10時間かそれ以下のABAを実施。)ロバースは、高頻度の療育を受けた子供のおよそ半数が回復し、低頻度の比較対照群の子供は誰も回復しなかった、と主張しました。その研究は研究方法上の問題のため、懐疑的な目で受け入れられていました。たとえば、回復したとみなす基準が、「普通の」教室で1年生を終えること、少なくとも平均のIQを示すこと、というのでは低すぎるのではないかということが批判されていました。また、療法自身も、それがある部分においてはかん高いノイズや平手打ち、時には電気ショックなどの「嫌子」に頼っているという点で非難されました。その後90年代には、人々の強い抗議を受け、ロバースと彼の弟子たちのほとんどは嫌子を用いることをやめるようになりました。

その後に続いた研究ではロバースのしたような発見は同じ形では再現されませんでした。しかし、集中的な行動療法により、言語・認知・社会性の面について、多くの自閉症児に対して少なくとも多少の、そして一部の自閉症児に対しては大きな改善がなされるということは、研究者たちは比較的早期に確認していきました。いくつかの研究では、時折、自閉症ではなくなる子供がいると主張されましたが、こうした研究は退けられていました。そもそも子供が誤診を受けていたり、回復とされるものが主張されるほど完全なものではなかったのです。

しかし最近のこの18ヶ月間の間に、2つの研究グループが厳密で体系だった研究論文を発表し、その中で、少数ではあるものの確かに一部の子供は実際に自閉症を克服するということを示す、これまででもっともよいエビデンスを示したのです。臨床神経心理学者であるデボラ・フェインのグループによる研究では、Bくんを含む34人の青少年が取り上げられました。この研究では、全員について間違いなく自閉症である特徴を記載した幼少期の医療記録と、今や彼らが自閉症の診断基準を満たさないことが確認され、こうした経過を「オプティマルアウトカム(最良の結果)」と呼びました。また、研究の中ではこの34人を、自閉症の特徴が残り「高機能」とされる44人の青少年や、34人の定型発達の同年代児とも比較しています。

別の研究では、85人の子どもについて2歳での診断からおよそ20年に渡って追跡調査し、そのうちの9パーセントが障害の診断基準を満たさなくなったことを発見しました。この研究グループのリーダーで、自閉症の診断・評価分野の高名な研究者であるキャサリン・ロードは、そうした自閉症ではなくなった人のことを「ベリーポジティブアウトカム(とてもプラスの結果)」と呼んでいます。

自閉症の専門家たちはこれらの研究報告を歓迎しました。心理士であり研究者でもあるジェラルディン・ドーソンは、「私たちの中で、自閉症の子供と密に関わっている人たちは、このようにはじめは自閉症を抱えているけれども成長過程のなかでそうした症状が完全になくなる子供達のグループがいることを実践を通して知っています。こうした子供のことはこれまでにずっと疑問視されていましたが、この研究ではとても入念で体系だった方法で、そうした子供達が実在することが示されました。」と語ります。彼女や多くの同僚の患者のうち、10パーセントかそれ以上が、症状を持たなくなったと見積もっていると言うことです。

こうした発見は、アメリカ全体で自閉症ケースの数が急速に増加しているかのように見える今日になされました。自閉症の有病率に関する全国的な統計研究はないものの、ある部署の最近の研究では、子供の68人に1人が自閉症を抱えているということであり、2年前の88人に1人という数字から増加しています。専門家はこうした数の増加を、主に障害に対する認識の向上や、診断基準の拡大によるものと考えています。また、一部に研究者たちは、これに加えて化学物質や両親の高齢化(晩産化)などもまた自閉症の増加に寄与していると主張しています。科学者たちは、一口に自閉症と呼ばれるものが、実際には異なる遺伝的・環境的原因を持つ、それぞれに違いのある状況のまとまりであって、それがたまたま似た症状を呈しているのではないかとも考えています。もしそうであるならば、なぜ一部の子供が大きく成長する一方で、ほかの子供はゆっくりなのかということを説明しやすくなります。

これらのフェインとロードによる研究では、自閉症の原因が何であるかや、一体どんな要因でその症状がなくなるのかについて、特定することは目指されていません。ただ、ときどき自閉症が消える、ということを調べているだけです。とはいえ、IQの役割など、いくつかの手がかりらしきものはあります。ロードの研究では、2歳時点での非言語性IQが70以下だった子供は皆、自閉症のままでした。しかし非言語性IQが70以上だった子供のうち、4分の1は、診断時点での症状の強さが他の同じくらいのIQの子供と同じくらいであったにもかかわらず、徐々に自閉的でなくなっていきました。(ただし、フェインの研究では、研究計画上、少なくとも平均以上のIQの人のみが対象とされています。)また、別の研究では、高い運動機能を持つ子供や、言語理解スキルを持つ子供、人のマネに意欲的な子供が、自閉症ではなくなりはしないにせよ、早く成長する傾向があると示されています。早期、特に療育を開始した一年目に目覚ましい成長を遂げる子供についてもこうした傾向が見られ、このことは彼らの脳の何か、あるいは彼らの自閉症の種類のようなものが、よりよく吸収していけるようにしていることの印ではないかとも考えられます。研究者たちによると、両親の関与、例えば子供の権利を守るように訴え、サービスを求め、家でも子供と課題に取り組むことなども症状の改善と相関しているようだと言います。また、紛れもなく、経済的基盤もプラスに働きます。

しかしながら、現時点ではこうした発見はまた手がかりに過ぎません。フェインはこう語ります。「これまで自閉症の子供達を40年研究してきて、うまくやってきたという自負もあります。でも、初対面での印象から、誰が良くなって、誰が良くならないかということを見通すことはできないんです。本当のところを言うと、オプティマルアウトカム(最良の結果)となる子供が誰かがわからないばかりじゃなくて、誰が高機能自閉症になり、誰が知的遅れを持った自閉症になるかさえもわかりません。まだわからないことが多すぎるんです。」


続き

翻訳記事「自閉症を克服した子供たち」 (その1)

元記事:The Kids Who Beat Autism By RUTH PADAWER, JULY 31, 2014

はじめは、Lさんの男の子の赤ちゃんはいたって普通のようでした。発達のマイルストーン(訳注:3-4ヶ月で首すわり、など)は全部すんなりと通過したし、あらゆる発見を楽しんでいるようでした。しかし12ヶ月ごろから、その男の子、Bくんは退行しはじめたように感じられ、2歳になるころには彼は完全に自分の世界へ閉じこもってしまいました。もう目もあわせないし、聞こえていないようだし、時折自分で話すあれこれの言葉も理解していないようです。おっとりとしたふるまいは、かんしゃくと頭打ちに取って代わられてしまいました。「あの子はとてもいい子だったんです。それが突然薄れていって、ばらばらになっていったんです。どんなに悲しかったことか。とても耐えられませんでした」とLさんは語ります。ほかの何にもまして、Lさんは、朗らかで活き活きとした男の子に戻ってきてほしかったのです。

数ヵ月後、Bくんは自閉症の診断を受けました。両親はひどく落ち込みました。それから程なくして、Lさんは自閉症の療育者、研究者、そしていくばくかの必死な両親が集う学会に参加したのです。お昼にLさん(子供のプライバシーのためイニシャルを用いるよう頼まれています)は、同じように変わってしまった息子のことをあれこれと話すジャッキーさんと知り合います。ジャッキーさんの男の子、マシューくんは、耳の感染症のせいですぐによくなるから心配する必要はないと言語聴覚士に言われていました。しかしそれは間違いでした。数ヶ月のうちにマシューは誰のことも、両親のことさえもわからなくなりました。最後まで残っていた言葉は「ママ」でしたが、それもLさんがジャッキーさんと会ったころにはなくなってしまっていたのです。

それから数ヶ月、数年の間、Lさんとジャッキーさん二人は何時間も電話で話し、あるいは家を行き来しました。不安やいらだちを共有し、治療法についての考えを交換し、同じ恐怖と混乱を抱える相手とともにいくつもの山を越えていく中でお互いに慰めあいました。私が彼女たちに初めて会ったとき、90年代に試してきたあらゆる療法の話をしてくれました。感覚統合、ビタミンの大量摂取、乗馬療法や、サプリメント自閉症が直せると主張する心理学者が出したひどい味のする粉なんかの話を。そのどれも、どちらの子にも効きませんでした。

彼女たちは応用行動分析、あるいは略してABAと呼ばれる療法についても検討しました。当時盛んに議論されていたその療法は、あらゆる日常生活の中の行動を、小さな、覚えやすいステップに分解し、それを暗記と徹底的な反復で身につけさせるというものでした。息子がロボットにされてしまうに違いないと考えたので、二人は一旦はそれを却下しました。しかしBくんが3歳になる直前に、Lさんと夫は、ABAを二人の子供に行って自閉症から「回復した」と主張する女性の本を読んだのです。Lさんは読み終わった次の日から、本の巻末に載っていた練習をしてみました。それは、指示を出し、子供がそれに従うようプロンプトし(促し)、それをしたら報酬を与えるように、というものでした。Bくんに「パチパチして」と言って、それからBくんの手をとって拍手させるのです。それからBくんをくすぐってあげたり、M&Mチョコレートを一粒あげたりしながら「いい子だね!」とほめるのでした。Lさんは自分が何をしているのかほとんどわかっていなかったものの、それでも「今までにしてきたどんなことよりもすごい成長をしたんです」と語っています。

Bくんの成長にびっくりした両家はABAが開発されたカリフォルニア大学のABA専門家を雇って、3日間の訓練を受けました。料金は莫大なもので、謝礼だけでなく飛行機代やホテル代まであわせて、1万ドルから1万5千ドルもしました。専門家たちは何時間もかけてそれぞれの男の子を観察し、彼らの特性を見つけ、両親がするべき対応の仕方の詳細なリストを作りました。そしてそれから数カ月おきに戻ってきては新しい段階に進み、言葉をどう使うかだけでなく、声の出し方やごっこ遊びへの混じり方、ジェスチャーの使い方や人のジェスチャーの汲み取り方など様々なことを教えようと取り組みました。また、両家では息子たちにABAを行う人を雇って訓練を受けさせ、二人は週に35時間の個別療育を受けるようになりました。

専門家たちが教えたことはたとえばこんな風でした。子供が何かをほしがったら、それを渡すこと。ただし、その子が大人の方を見るまでは手を離さないこと。一ヶ月もたたないうちに、Bくんは人に何かを頼むときに相手を見るようになりました。そうしないとほしいものが絶対にもらえないとわかったからです。4ヶ月経つころには、助けを求めているとき以外にも人を見るようになりました。それから数週間練習して、ほしいものを指差すというスキルを身につけました。指差しの力を一度知ると、Bくんは、それまでしていたようにお母さんを冷蔵庫のところまで引っ張っていって、お母さんが自分のほしいものをわかるまでうなるようなことを一切しなくなりました。ブドウがほしいときにはブドウを指差せばいいとわかったのです。Lさんは後になって語っています。「1歳から3歳ごろまでは、真っ暗で恐ろしさばかりでした。でもどうやって物事を教えていけばいいかがわかってからは、闇が晴れたのです。わくわくするようになったのです。毎朝おきて、新しいことを教えるのが楽しみでたまりませんでした。全くつらくなんてなかったんです。とっても、とっても、救われた思いでした。」それから程なくして、Bくんはコミュニケーションのために言葉を使うようになりました。ただし、そのきっかけは半ば偶然の、発明のようなものでした。あるとき、Bくんが冷蔵庫にあるブドウを指差したので、Lさんはそれを取り出して、房からプチッと取って渡してあげました。そうすると突然Bくんが叫びだしたのです。床に転がって、怒り悲しみに身もだえしたのです。Lさんは戸惑います。間違いなくブドウを指差していたはずなのに。何か私が誤解してしまったのか。なんでそんなに腹立たしいほどに気まぐれにかんしゃくを起こすんだろう。

そう考えていると、突然、Bくんが「木!木!」とねだりました。これでピンと来ました。房についたままのブドウがほしかったんだ、自分でそれを取りたかったんだ!「ああ、神様なんてことだろう。これまでに気まぐれなかんしゃくだと思っていたことが、この子にとってはぜんぜん気まぐれなんかじゃなかったことがどれだけあったことだろう。とても申し訳ない思いでした。これまでに言えなかっただけで、いろいろなことをしてほしかったんじゃないのか」と。

それからBくんの言葉の力は急速に開花していきました。幼稚園を卒園するころにはおしゃべりで愛想の良い子に育っていました。ただしその反面で、人付き合いは苦手なままだったし、多動で、動物の世界に首ったけのところも残っていました。恐竜や魚は全部知っていたぐらいです。その時に頭がいっぱいになっていることがあると、聞いてくれる人には、いや聞いてくれない人にでも、とめどなく話してしまうのでした。Lさんは3枚の小さなラミネートしたクーポンを作って、毎朝Bくんに言い聞かせながらそれを前ポケットに入れてやります。自分の好きな動物の話をしたときや、ほかの子が離れていったり話題を変えようとしていることに気づいたら、クーポンを反対側のポケットに1枚、移すんだよ。そのクーポンがなくなったらね、その日はほかの話すことを探さないといけないよ、と。クーポンのおかげか、成長したおかげか、はたまたほかの何かのおかげか、Bくんの一人語りは2年生の終わりにはやみました。その頃からこだわりもゆるんできました。Bくんの主治医は、自閉症の最後の名残もなくなった、もう一番ゆるい診断基準でも満たさなくなった、と結論付けました。

これを聞いてLさんは天にも昇る気持ちになったのと同時に、罪悪感にもさいなまれました。ジャッキーさんの息子もBくんと同じ療育を受けていたはずなのに、同じようには成長しなかったからです。マシューくんはまだ話せませんでした。ほかの子や、おもちゃにもほとんど興味を示さないままでした。それまでにあの手この手で教えようとしてきたにもかかわらず、マシュー君のコミュニケーションは極めて限られたままでした。嬉しいときには大声でキーキー叫び、吐き戻したとき(ほぼ毎日1年にわたってしていました)はどうやら機嫌が悪いようだ、とお医者さんが身体的には異常がないということから考えるようになったぐらいでした。

「ジャッキーはマシューくんのために何だってしたのよ」と語るLさんの声は不安に満ちていました。「そう、何だって。私と同じぐらいがんばったのよ。同じ人も雇って、同じ課題をやって・・・」。その声はかすれいってしまいます。行動療法のおかげで息子を取り戻すことができたと確信しながらも、どうしてマシューくんに同じような効果がなかったのか、わからないのです。



続き

発達障害を抱えて生きること、あるいは、自分自身になっていくこと

前の記事では、「発達障害」という考え方を、どうやって子どもや自分自身のこととして見ていくかという話を書きました。

こんどの記事は、そうした発達障害を抱えたままでどうやって生きるか、という話です。


発達障害を抱えた子ども・大人が成長するとはどういうことでしょうか?

人間、特に日本人は、あるいは子どもの親は、「弱み」・「苦手さ」・「問題行動」「発達障害に特徴的な行動」をなくしていくこと、そうして「普通の子」にすることを重視する傾向があるようです。
そういうと逆に、「障害は病気じゃないから治らない」「無理をさせるのはいけない」「ありのままのその子でいいんですよ」というような話をする人もいますね。

もちろん、様々な場面で本人あるいは周りの人を苦しめるような行動については、少しずつより良い行動に置き換えていくことが望ましいのはあたりまえです。色々なことができないよりは、できる方がいいでしょう。
わざわざ苦行のような生き方をすることはない、ラクな方向を、より選択肢の広い生き方をできる方向を目指していくことは必要です。

でもそれが行き過ぎて、「発達障害に特徴的な行動は全部なくさなくちゃ!そうしてこの子から障害を取り除かなくちゃ!発達障害を治さなくちゃ!『普通の子』にしなくちゃ!」ということがゴールになってしまったら、あまりにストイックな道のりになってしまいますし、本当にそのようにうまくいく見込みは少ないでしょう。



いくつか気に留めたほうが良いことがあります。

まず第一に、「問題行動」あるいは「特徴的な行動」は本人なりに状況に適応しようとしている行動なことが少なからずあります。
ただ単にそうした行動をなくすことだけを目指しすぎて、その行動の根底にある、本人なりの適応を目指す動きを見逃してしまわないように。

そして第二に、「弱み」や「苦手さ」は、時として「強み」と表裏一体の反面なことが少なからずあることです。
たとえば、「不安が強く慎重な子」は「慎重・堅実な子」とも見えるし、「注意散漫な子」は「好奇心旺盛で感度が高い子」とも見えます。
「弱み」と「強み」、見方を変えれば同じものだったりします。

こうしたことを踏まえてもう一度考えてみましょう。
発達障害を抱えている子どもが持つさまざまな「弱み」・「苦手さ」・「問題行動」・「発達障害に特徴的な行動」を全て取り除くことができたとして、その時その子は「普通の子」になるのでしょうか?
もしかしてその子は、自分なりの対処法も取り上げられ、なんの取り柄も見どころも「個性」もない、何者でもない子になってしまってはいないでしょうか?



言い古されたようなことですが、大切なのは欠点を潰すことではなく、その子の強みを引き出すことです。
強みとは、別に「特に人と比べて優れているところ」という意味ではありません。
その子の中で、強く表に出ている部分、ということです。

この「強み」ということはなかなかイメージされにくいので、少し脱線してある心理テストを元に考えてみましょう。



昨年の夏、私のタイムラインで 16Personalitiesという心理テストがちょっとしたブームになりました。
心理テストと言っても、誕生日やTwitter IDから何かの結果が振り出される「占い」のようなものではなく、多数の質問項目についてどのように答えるかで性格傾向を見る、まぁまぁしっかりとした作りの心理テストです*1

この心理テストの背景にある人格理論では、以下の4つの軸を想定しています。

  • 内向型 (I) または外向型 (E)
  • 直感型 (N) または感覚型 (S)
  • 思考型 (T) または感情型 (F)
  • 判断型 (J) または知覚型 (P)

詳しくはリンク先を見ていただくとして、この心理テストでは「平均」とか「普通」という結果は考えられていません。それぞれの軸について、多かれ少なかれ必ずどちらかには傾き、優位な力が4つ見られると考えます。この4つの軸についてそれぞれどちらが優位になるか、という風にして2の4乗、つまり16種類の性格類型を考えてみようというものです。



前回の記事で、「発達障害は障害でもあり、個性でもある」ということを書きました。

一般的な知能検査では、真ん中(平均点)ぐらいの人が一番多く、それよりも低い人・高い人はだんだん少なくなっていきます*2。ある意味では、平均からある程度外れていることを「異常」・「障害」と見るような見方です*3。発達障害を「障害」とする見方は、このように「平均の範囲」から外れていることを問題としています。

それに対して、この性格テストのような例ではタイプの別はあれど、そこに優劣や平均はありません。発達障害を「個性」と見る見方は、このようにタイプごとのあり方を見ようとするものです。
それぞれのタイプは良い方向で発揮されればこうなる、その反面で悪い方向で発揮されてしまうとこうなる、という風に考えることができます。

「個性」の部分だけを取り上げて「障害」の部分に目をつぶってしまうと、現実的なところでつまづきの元になってしまうかもしれませんが、このようにタイプとしての良い面を見ていくことで、他人との優劣ではない形で、その子の「強み」を考えることができます。
言い方を変えると、その子がどういったタイプ・形の子かということを考えていくことで、勝ち負けや何かの数値の高低を比べる以外の評価の仕方ができます。

知能検査のように数字で結果がでるものはある意味でわかりやすいですが、実際にはほとんどの場合、人にとって大事なのは質的な評価の方ではないでしょうか?



昨日今日あたり、タイムラインで子どもへの障害の告知・自己理解の話が盛り上がっていました。
こと発達障害の告知ということに関しては、まずは自分自身のタイプということを知っていくことがベースであってほしいと私は思います*4
その上で、他の人と比べた相対的な評価というのも自覚していく必要はありますが、まずはタイプという絶対的な面を元に自己理解の道に入っていってもらえたらと願います。

ちょっとここでマンガの話をしましょう。
ある心理士の友人に勧められて『ベイビーステップ』というマンガを読んだのですが、これはまさしく自己理解の話だと感じました。
テニスを題材とした、少年誌で掲載されているマンガなのですが、この作品で主人公の成長に一番密接につながっているのは「努力」でも「友情」でもなく、「自己理解」なのです。

元々ガリ勉タイプの主人公がひょんなことからテニスを始めるのですが、初めは運動はからっきしです。その主人公が身体能力・技術・キャリア・経験、あらゆる面で自分よりも上手な相手に勝つために、自分のできないことをありありと見つめ、自分の持っている数少ない強み*5をどう活かせるかを考えぬいていきます。

こうやって書くと一見あたり前の話のようですが、この作品では相手もみんな自己分析をしていることが丁寧に描かれています。
そしてその結果として、全員が一人一人違うスタイルを身に着けていって戦っていることが見えるのです。
それは本人の体格や、好みや、指導者などによって一人一人違った形に作り上げられてきたものであり、一つの平均とか理想形とか普通というものはそこにはありません。
そして、相手との勝負を通してさらに自己分析をしていくことが成長の契機になっています。



発達障害ということも一回抜きにしてしまいましょう。

特に発達障害というほどのものを抱えていない人であっても、あるいはそうした傾向が自分にあるかもなと思う人であっても、いずれにせよ私たちのほとんどは「天性の才能」というようなものは持っていません。

スヌーピーの名言としてよく出てくる言葉にこんなものがあります。

配られたカードで勝負するっきゃないのさ… それがどういう意味であれ
You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means

こうした言葉を、単に、人は甘んじて自分の限界/障害を受け入れなくちゃいけない、と読むのはもったいないと考えます。
それよりも、配られるカードはみんな違うからこそ、どういう自分(役)を目指していくかも一人一人違う、という風に読んではどうでしょうか。

こうやって、特別でもない、欠点も多々見つかる、なかなかどうしようもない自分のことをまざまざと見つめるというのは決して楽しい・愉快なことではありません。苦しいです。できればしないでおきたいぐらいに。

でも、特別な才能というようなものを持たず、お花畑のようにすばらしい「個性」というようなものも持たない身であっても、
自分の人生の中での様々な経験を積み、他の人と関わり、自分の考え方・感じ方のくせに気づき、そうした自分をどういう方向に成長させていきたいかを考え、マイナスの感情が募りすぎないようにうまく舵取りができれば、
そうすることで、本当の「自分らしさ」とか「魅力」というのが磨かれていくのではないでしょうか。

そこでは何かの「障害」のようなものや、あるいは他人との優劣というのは一旦脇に置かれます。
あるいは「障害」とか、苦しい体験とか、一見「人生の回り道」のように見える様々なことが、かえって深く自分自身と向き合い、自分ならではの形を掘り出していくために大きな働きをすることもあるかもしれません。



マイナスのことをなくすことや、「普通」になることばかりを目指しすぎて、こうした自分自身と向き合うことを邪魔してしまうのはもったいないと私は考えます。

「ありのままのあなたでいいんですよ」というような言い方は、その子が「ぼくは、ぼくじゃなくて『普通の子』にならなくちゃ」というような呪縛に囚われているようなときには、必要でしょう。

スヌーピーの別の言葉でこんなのもあります。

自分以外の人間になりたいと願いながら、人生を送るのは耐え難いって
He says it’s terrible to go through life wishing you were something else.

でも、もし「いまのままのあなたでいなくてはいけませんよ」というなら、それは大きなお世話でしょう。「ありのまま」とは成長しないでいい、変わらないでいいということではありません。

ドクター・スースというアメリカの絵本作家・児童文学家の人がお誕生日のメッセージとしてこんなことを書いています。

あなたはまたあなたになったね。どんな本当よりも本当のこと。あなたよりもあなたなひとなんて、この世に1人もいないのだから
Today you are You, that is truer than true. There is no one alive who is Youer than You.

障害をなくすことよりも、「普通」になることよりも、もっともっと、その子自身、あなた自身になっていくプロセスを歩んでいけるようにと願います。

*1:意識的に回答を操作できる点と、こうした理論が本当に妥当性を持つかどうかの検証が難しい点があるため、「まぁまぁ」です

*2:正規分布をすると想定されています

*3:極端にIQが高く、かつ発達の凸凹があると「2E」twice exceptionalといってspecial educationの対象となります

*4:子どもにさっきの16Personalitiesをさせてください、という意味ではありません

*5:この自己分析能力と相手の分析能力に主人公補正がかかっています