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dicelogue

@dicegeistのlog

わが子の発達障害特性を考えることと、自分自身の発達障害特性を考えること、障害を「受容」すること

前の記事では、社会的、大局的な話をかきました。

この記事は、個人のレベルでの話を書きます。


「発達障害」という言葉は、使う人・文脈によって大きく色合いを変えます。
特に、①わが子の将来に関する「不安」の象徴のように使われるときと、②大人の方がこれまでに経験してきた大変さの「解説/仮説」として使われるとき、③第三者が排除的・侮蔑的に使うときとでは、意味合いがとても大きく変わってきます。

わが子に関して「発達障害」という言葉と出会うのはどんな時でしょう。
ただでさえ、子育てというものは先行きが見えず、親御さんに様々な責任がおっかぶせられる時代。そんな中で、家庭で親子で関わるとき、あるいは幼稚園・保育園・小学校などで、何かうまくいかない・しっくりこない不安感が募ってくる。
そんな不安感を象徴するような言葉として、「発達障害」とか「発達障害の疑い」とかって言葉が降りかかってきたならば、それを否定したい、払拭したいと思うのも無理もないこと。

それに対して、自分自身を考える上で「発達障害」という言葉と出会うとき、その人はきっと、「不安感」などという言葉では済まないような、いろいろな日々を何年も、何十年も過ごしてきた先でのことでしょう。
その過去はもう起こったことだから、それをどう振り返るか、見なおすかというふうに自分のことをもっと知りたいというような形のことが多いのではないでしょうか。そして、これから先、少しでも立て直しをはかれるチャンスをを考えていく足がかりとして使われたりする。



発達障害ということに限らず、私たちは「自分のことを知りたい」「自分の知らない角度から見なおしてみたい」という思いを持っています。
おとぎ話に出てくる魔法の鏡をはじめとして、占い、おみくじ、診断メーカーや、いろいろな「心理テスト」などなど。
心理学的、精神医学的、社会学的概念がこのように使われることもある。「毒親」とか、「AC」とか、「ニート」とか。
そういう装置や言葉(概念)を使ったちょっと違う自分の見方は、うまく使えれば納得に、もっとうまくいけばなにか新しいことに舵を切るきっかけになるかもしれません。その反面で、悪く働くと自分自身を縛るものにもなりえます。

そしてこうした目新しい概念の持つ魅力を悪用して、他人に対して無闇矢鱈に振りまわし、排除的・侮蔑的に悪用する人もいます。たとえば「アスペ」という言葉はもはやネットスラングになってしまいました。
これは、端的に言って、間違っています。
ハンス・アスペルガーさんは、自分の名前が対人コミュニケーションが苦手な人の蔑称として使われることを目指して研究したわけなんかでは、決してない。

Twitterのフォロワーさんで、「なんだなんだ、そうだったのか」というタイトルでブログを書かれている方がいます。
発達障害、発達の凸凹という見方に気づくこと、知ること、それを取り入れるということは、「そうだったのか」という理解・洞察のために使われることで真価を発揮するはずのものです。



発達障害は個性なのか?障害なのか?、ということが時々問題になります。

確かに、発達障害を抱えながら、際立った優れた才能や、独特の魅力を持っている人がいます。
とはいえ、たまに誤解されているように、発達障害を抱えているからといって全員がなにか特別な才能を持っているとは限りません。
むしろ凸凹は大きくても普通の人、ということの方がはるかに多いでしょう。

「個性」とか「性格」という見方は、「病気のように治すものじゃない、本人の人格と一体不可分のもの」という意味ではとても大事なもの。
でも、本人が様々な形の生きづらさを抱えている時、それを第三者が勝手に「それはあなたの個性ですよ!」などと言って良いのでしょうか?
その人との信頼関係とかいろいろなこと次第では温かい後押しになるかもしれない言葉だけれども、得てして無責任な切り捨てにもなりかねない。

吉田友子先生という児童精神科医の先生が書いている「障害でもあり、個性でもある」という見方が収まりが良いと私は思います。



子どもの話に戻りましょう。
子どもに「発達障害」という名前が貼り付けられそうになってるときにも、この「障害でもあり、個性でもある」という見方が重要になってきます。
子どもの育ちが健やかなものであることを願うこと、親なきあとも子どもが自立して生活していけるように育てようとすること、そのためにできることをあれこれしようとすることは、ごく自然なことです。
でもそこから、障害を否定したいという思いが高じて、その子自身の人格や思いを否定することになってしまわないように。
そのレッテルを何が何でも取り去ってビリビリのギッタギタにしようとすることに執着するあまりに、子どもの姿を見失わないように。

「何が何でも子どもの障害を治さなくちゃ!」と躍起になって奔走して、多大な時間とお金をかける人がいます。
これはなかなか苦しい。なにせゴールが見えないので。「治す」ことをゴールにしてしまうと、それは幻のゴールになってしまうかもしれない。

オランダへようこそ!という話があります。
少なからぬ親が、子どもが生まれる前から「この子は○○が好きな子に育てて、☆☆にならせよう」という風に思い描いたりします。
それが、障害の疑いや診断告知で消し飛ぶようなショックを受ける。
なればこそ、「障害が治ってほしい」「普通の子になってほしい」と思うことも自然なことでしょう。



「障害受容」という言葉があります。
「あの親は子どもの受容している」「この親は子どもの障害を受容していない」などと言うふうに使う人がいます(私はこの言葉は嫌いなので使いません)。
でもこれは元々は、死に至る病を抱えた人が自分の死を受け入れていくプロセスをモデル化したものです。
このズレが、「発達障害は脳の先天的な機能不全であって、病気ではないから治らない」という言葉と相まって、しばしば誤解を広めていることに注意が必要です。

「子どもの発達障害を受容する」とは、「治らずにどんどん悪化していく」と諦めることではありません。
発達障害を抱えていても、適切な関わり方を積み重ねていけば、ちゃんと子どもは成長します。
「治す」ことではなくて、「成長させる」ことを目標にすれば、着実なアプローチはたくさんあります。
そして100%適切な関わり方でなくても、いろいろ試行錯誤しながらでも、ちゃんと成長します。

大人が自分自身の発達障害特性を考える時と同じように、わが子の発達障害特性を考える時にも「これから」のことを考えていけるようにできればと願います。
子どものことについて「受容」という言葉を使うなら、「その子が障害を持っていること、多数派と違う成長の仕方をすること」をひとまず確認するまでで十分ではないでしょうか。
別の言い方をすると、「発達障害を抱えているその子のことを受容する」ことができれば十二分ではないでしょうか。



また、「子どもの発達障害を受容する」とは、「障害特性に由来する行動を、どんなに理不尽なものであっても、全てありのままで受け容れ耐え忍ぶ」ということでも断じてありません。
仏様のような寛大な心を持って子どもの理不尽な行動をただ黙って耐えて受け止めなければ、なんてことを目指しても、私たちは人の子なので必ず限界が来る。
だから親御さんが、「発達の仕方が多数派の子どもと違う子どもを授かり、育てていくこと」だけでなく、「その子育ての中で感じる、親御さん自身の様々な感情の幅すべて」も受け入れられればと願います。

かわいい面も、時に憎たらしい面も、様々な面を持つ子どもと関わり育てていく上で、親御さんが自分自身の抱いて良い感情の幅を制限なんかしてたら、素晴らしい親として振るまわなくちゃなんて自分を縛っていたら、その子の成長を引き出していくためのいろいろなやり方を考える余裕なんてなくなります。
叩かれたり、噛まれたり、床に何かをぶちまけたり、壁になにかを塗りたくられたり、何遍も果てしない繰り返しにつき合わされたり、そんな中で感じる「イヤだなぁ…」という気持ちを抑圧しないこと。抑圧したものはいつか子どもに向かって噴出するから。

そうならないように、自分のネガティブな気持ちの置き場所をちゃんと作ること、誰かと話すことが命綱になります。
その上で、「こんなめんどくさい子だけれど、イヤなことばかりじゃない、確かに喜びもある、『普通』にはならないかもしれないけど、この子を自分が育てていこう」と思えるようになるのなら、それが「障害受容」の最高の形なんじゃないでしょうか。



発達障害があっても子どもは成長していくし、一筋縄でいかなくても教えていくことができます。
ポジティブな感情も、ネガティブな感情も、どれも遠慮したり抑圧したりしないで、自分ひとりの中で抱えるのではなくだれかと話すこと。息を吸っては吐くように。雨の日も晴れの日もあるように。
「障害」という言葉のショックで崩れちゃったそうした子育ての中での気持ちのサイクルをまた回していけるように。






次の記事では、発達障害、あるいは発達の凸凹を抱えたままで、どう自己分析して生きていくかについて書きました。
dicegeist.hatenablog.com

「発達障害」という考え方を持つことについて

(過去のTwitter投稿をあれこれとりまぜ加筆)

発達障害」ということについて、「昔はそんなものなかった」「わざわざ障害児扱いをしている」「できるはずのことを甘やかしている」というようなことを言うひとがいます。少なからずいます。

でも本当は、発達障害という考え方は「普通の子を障害と決めつけ、『できなくていい』と切り捨てていく」ためのものではありません。そうではなくてむしろ、かつてなら「普通の子」扱いから外れそうになり、その瀬戸際で揺さぶられてきた様々な子を、より一層その子に合わせた・公正な見方で見ていこうとする考え方です。「これができてあたり前」という窮屈な「普通」を広げ、いろいろな人がいる世界をより豊かに見ていくための視点です。精神論ではとても乗り越え難い苦手さを少しずつ越えていけるように支える方法論です。



これまでに、目に見えるわかりやすい障害はないけれど

  • 人の話を聞かない、屁理屈ばかりこねる問題児
  • ガマンの効かない、聞き分けの悪い問題児
  • 真面目に勉強に取り組まない、漢字を覚えようとしない問題児

として、叱られ続け、時に体罰まで受けながら育つ子ども、そうして育った大人たちがいます。
その子たち・大人たちは、「障害児」とは呼ばれなかったにしても、どれほどその尊厳を傷つけられてきたでしょうか。

こうした「できなさ」には脳の情報処理の仕方になんらかの困難があると考えられています。それは一見、普通の人が誰でも持っているようなちょっとした不器用さ・苦手さと似ているようでいて、その次元・程度が全く異なる人がいるようです。似ているようであまりにも違うので、当の本人ですら「自分の努力不足なんだ…」と感じて何十年もすごすような、見えないズレ。それが高じていけば、自分の存在価値を信じられなくなることにも至ってしまう。



昔は「自閉症」といえば「知的障害」を伴うのがあたりまえと考えられていました。なぜなら言語を十分に身につけられず、コミュニケーションが取れず、療育もされず、知能検査にもうまく対応できない人がそう診断されいたからです。約0.1%ぐらいそうした子どもがいると考えられていました。

それからいろんな人が研究をする中で、自閉症と似た特性を持っている人がもうちょっと多くいることが段々わかってきました。その人たちの一部は、ある程度言葉を身につけ、ある程度コミュニケーションがとれ、ある程度知能検査なんかにも取り組めました。また別の一部の人は、特異な性格と非凡な才能を持っているように見えたりもしました。こういう子たちも含めてみると、約1~2%ぐらいいるんじゃないか?これまで気づかなかったけど大人にもそうした人がいるんじゃないか?と考えられるようになり。

そうやって視界を広げていくと、診断名をつけるほどではない、「障害」と呼ぶほどではないけれど、似たタイプの子どもも大人もかなりいるようだ、と見えてきました。約5%。もっと多く見積もる先生なら、「10人に1人」とも。どこか遠い施設の中にいる人ではなくて、普通に生活しているなかで、あちこちで関わっている人たち。あるいは自分自身も?



様々な形で研究を重ねてくると、言葉で自分の感じていること・考えていることをうまく表現できない自閉症を持った子ども・大人が感じていること・考えていることのヒントが見えてきました。これはさまざまな医師・教育者・心理学者などの観察・実践によるものもあれば、自閉症的な特性を持ちながら言葉で巧みに表現をすることのできる人たちの貢献によるものもあり、無数の人たちが考え汗や血や涙を流してきた上でのことです。

一見意味の分からない行動やこだわり、かみ合わないコミュニケーションにもどうやら理由があるようだと見えてくると、そこに合わせた関わり方・教え方の工夫も考えられるようになってきます。その子を知ろうとして、その子に合わせた関わり方をすると、良いところを沢山引き出せる、という見方も一般的になり、ノウハウがどんどん積み重ねられてきています。



しかしそれと同時に、ある見方をすれば似たタイプの子ども、同じ診断名を持つ子どもであっても、子どもによって得意なことの活かし方も、苦手さに対するアプローチもいろいろな形があることもいろんな人を悩ませています。
ある一つの関わり方の引き出しを振り回し、それに無理やり子どもを押し込むようなことをするだけでは、なかなかうまくいかない。一部の子はうまくはまり、ある程度の子は子どもの側がその引き出しに合わせてくれても、一部の子はどうにもはまらないことが続いてしまう。

自閉症スペクトラム障害を持つ子だと、非言語的コミュニケーションが苦手な可能性がある。だからこの子にもわかりやすい伝え方を探してみよう」というのと、
自閉症スペクトラム障害を持つ子だから非言語的コミュニケーションは苦手なはず。だからこの子にはわからないはず」というのは、ちょっとだいぶ違います。



発達障害ということを真剣に考えていけば、それは子どもを「決めつける」ためのものではないことがわかってきます。
「これぐらいできてあたりまえ」と決めつけず、「できないはず」とも決めつけず、さらに、「◯◯障害ならこうすればできるはず」とも決めつけないで、その子・その人自身のことを考えていくことが、発達障害という考え方とセットなのです。

そしてそういう見えにくい苦手さ・その人ならではの個別性を考えることに慣れていくと、発達障害に限らず、なんらかの障害を持つ人に対して「かわいそうな人」という蔑視をすることも薄れていくでしょう。
発達障害を考えるということは、「なんでできないんだ!」とその子に怒り・責めるのではなく、「◯◯障害のタイプと考えられるけど、その上で、この子はどんな子だろう?どこをサポートするところから初めていこうか?」と前向きに考えていくこととセットだからです。

世の中のいろいろなモノや学問分野と同じように、医学や教育学・心理学、その中での発達障害という考え方は、思考停止しないで考え続けてきた先に実ってきたもので、また、現在進行形で考えられ続けているものです。だからどうか、「昔はそんなものなかった」「わざわざ障害児扱いをしている」と思考停止しないでほしいのです。

同じように、ある子どもに発達障害の診断名がつくことも、それで終わりのゴールではありません。だから、悲観して考えることをやめないでほしいのです。心ある専門職なら子どもの成長のことを、あるいは大人として生きていくことをあきらめずに考え続ける先導をし、応援をすることと思います。
こうやって言葉にしたものも、ショックのさなかにある方には気休めにしか見えないかもしれません。考えるのを止められる方がラクかもしれない、とさえ思うこともあるかもしれません。それでもいつか、こんな話があったな、と思い出してもらえることがあればと思います。何千何万人の人たちが何十年ごしでバトンをつなぎ、考えを積み重ね、練りあげてきたことは、安易に「発達障害なんてない!」とただ否定することよりも、きっとあなたの力になるはずです。



この続編記事として、もう少し個人的なレベルでの「障害受容」について書きました。
dicegeist.hatenablog.com

子どもの気持ちの切り替えのために「叱る」ことについて

Twitter連投にちょっと加筆修正。)
Twitterでフォローさせていただいている まうどんさん(@mauzoun)がステキなマンガを描いてくださったので、「文字よりも絵!」という方は、ここから飛んでくださいな。
止めること・叱ること | マンガ蒲田家★定型外家族


ちょっと乱暴に言うと、
「子どもの聞き分けがない」「子どもが気持ちの切り替えが苦手」というのは、
大人が「子どもが気持ちを切り替えるまで待ていない、寄り添えていない」「子どもに伝わるぐらい丁寧に伝えられていない、うまく叱れていない」という風に、
大人の側の課題としても考えられます。
このように2つの面があるので、この記事も2本で1セットです。もう片方はこちら。
子どもの気持ちの切り替えのために「寄り添う」ことについて - dicelogue



「叱る」時に大切なのはどんなことでしょう?ざっとこんな風に私は考えてます。

目標は、子どもが適切な行動をとることを自分で選んでいけるようにすることです。
だからこそ、次のような大前提の確認がいります。
「子どもを怒ったり叱ったりすれば、子どもは懲りて反省して『悪いこと』をしなくなるはず」という無意識の期待を捨てる。私たちはこの期待に、あまりにも根深く囚われています。たぶん、完全に自由になるのは無理でしょう(私もです)。だから、そのことを自覚する。私たちは、キツく怒れば子どもが一時的に大人の思い通りに動くことを覚えています。そして、それを子どもがすぐに忘れることを忘れます。何度も。

  1. 強く怒られた時に反射的にビクッと止まることが、「怒る/叱る」ことの最大の効果です。これはそれだけでは持続しません。そして、繰り返すとだんだん麻痺していきます。だから、他の手立てを組み合わせる必要があります。交差点から飛び出しそうになっている子に、「止まりなさい!」と声を張り上げことは必要です(それで全く止まらない子ならハーネスなどの必要性が高いです)。それに加えて、たとえば横断歩道を渡るときに手をつなぐことを教えていきます。
  2. 何かを「教える」ということは、「ある特定の行動をできるようになること」と考えると明確になりやすいです。ついつい「飛び出さない」という否定形の伝え方をしたくなりますが、「交差点まできたら点字ブロックに乗って大人の方を見る」「手をつないで渡る」ことを教えるような形です。つまり「ダメ!」と叱ることに加えて、どうするか具体的に伝えること、それを実際にさせて、本人がまた繰り返したいと思わせることがセットで必要と考えられます。年齢が低いうちは決め打ちの形になりやすいですが、発達段階に応じて、代わりの行動を自分で考え・選べるように、ステップアップを。
  3. 怒られることに慣れすぎて麻痺することを防ぐには「強制的に意識を大人に向け直させる」という怒ることの効果を節約・出し惜しみすることが有効です。1日中怒鳴りつけざるを得ない状況だとどんどん効き目が薄れます。意識して目を瞑ることと、その反対に積極的に怒る/叱ることのメリハリを。メリハリは、大人の精神衛生上も大切です。よほど心の広い人でない限り、「叱らない」だけでは苦しくなります。「これは存分に叱りたい」という項目をいくつか決め、それについて思う存分叱って怒りを吐き出すことが効果的に働くように、他のことを意識して目を瞑るようなイメージ。
  4. 叱ることというのは多くの場合、子どもの意識・注目のコントロールを引きつけることです。そして、往々にして、怒鳴り声だけでは一瞬しかこちらに意識を向けさせることはできません。何かが気になり続けているときには、一旦それを取り上げ預かる、その場所を離れるなどが必要なことも多いです。離れたところから言葉で注意をして、子どもが生返事をしたので待っていたけれど改まらないので、最終的に大人が爆発、というのが避けたいパターンです。これは子どもの注意のコントロールに失敗しています。物理的に強制的に注意を惹きつけないと聞こえない場面は良くあります。
  5. 熱中している何かを一旦ストップさせたり、取り上げたりするのは、子ども本人には「罰」のように捉えられがちなので、そこの工夫が不可欠です。怒られている・叱られていると感じると、前向きに判断すること、主体的に約束すること(その結果、守ろうとすること)、覚えることが難しくなります。淡々と、あるいは飄々とふるまえるとうまくいきやすいでしょう。「アンタ何時までマンガ読んでるの!宿題は!!」とひったくるのと、「おもしろそうだね。ちょっとこれ置きます。今5時10分。宿題は何時からする?」と決めさせていくのでは、気持ちの切り替え方は変わります。
  6. できることならば、子どもに怒りやイライラをわざわざぶつけてしまわないようにしながら意識を惹きつけ、こちらの見逃せない・許せないラインを伝え、ある程度の枠・範囲の中で、その子自身がどうするかを選べるようにするのが理想です。踏み越えてはいけない線では止める(認めない)こと。そして、大人に自分の要求を認められない状況を解消しよう、落とし所を見つけようと思えるようになるためには、信頼関係の下地が重要です。この場合の信頼関係とは、これまでにいろいろな場面で「寄り添われ」、自分の意思表示を尊重され、和やかに合意を築いてきた記憶のことです。頭ごなしに決めつけられ叱られ続けてきていたら、いざという時ほどその子はますます抵抗し、受け入れにくくなるでしょう。そうならないように、日頃から、信頼関係の貯金をコツコツと。子どもの思いをただ黙認するよりは、言葉にして確認していくこと。様々な感情も代弁しつつ共有していくこと。
  7. これは子どもの発達の度合いを問わず、その子が好きで熱中していることを理解しようとしていること、その子に肯定的な関心を向けていることがベースになります。そして、そのためには、その大人自身も尊重され、精神的な余裕をなんとか持っていられることが望ましいです。


大人にだって様々な感情が当然あり、どうしたって怒りを子どもにぶちまけたくなることもあるでしょう。それをゼロにできる人は、たぶんこれを読んでいません。ただ、改めて思い出していただきたいのは、怒りをぶつけて叱ったからといって、それで子どもが思い通りに変わるわけではないことです。子どもに対してイライラしたり怒りを覚えるのは、正当な感情です。

しかし、それをそのまま子どもにぶつけるのは不適切、あるいは逆効果な行動でしょう。
感情に対する評価と、行動に対する評価は別です。子どもでも、大人自身でも。

叱ってでも本当に伝えたいことは何なのか、そのためにどう関係・場面を組み立てていくのか。
子どもの気持ちに寄りそうというのは、子どもを絶対に叱らないことではありません。子どもの主体性を尊重し、信頼関係を積み重ね、それとともに大人として責任を持って何かを教えることとは両立します。

dicegeist(@dicegeist)/2016年01月15日 - Twilogより。

子どもの気持ちの切り替えのために「寄り添う」ことについて

Twitter連投にちょっと加筆修正。)
Twitterでフォローさせていただいている まうどんさん(@mauzoun)がステキなマンガを描いてくださったので、「文字よりも絵!」という方は、ここから飛んでくださいな。
わがまま?聞き分けがない?大人が子どもに「寄り添う」ということ | マンガ蒲田家★定型外家族


ちょっと乱暴に言うと、
「子どもの聞き分けがない」「子どもが気持ちの切り替えが苦手」というのは、
大人が「子どもが気持ちを切り替えるまで待ていない、寄り添えていない」「子どもに伝わるぐらい丁寧に伝えられていない、うまく叱れていない」という風に、
大人の側の課題としても考えられます。
このように2つの面があるので、この記事も2本で1セットです。もう片方はこちら。
子どもの気持ちの切り替えのために「叱る」ことについて - dicelogue



「寄り添う」って具体的にはどんなことでしょう?ざっとこんな風に私は考えてます。

  1. 身体的には視線の高さを合わせること。正面から向き合うならプレッシャーにならない距離を。横並びで同じ方向を眺めるのでも、子どもがなにか作業・遊びをしているのならそれを一緒にするのでも
  2. 身体言語としては、怒っているトーンができるだけ出ないようにする。口調はゆっくり、ちょっと間延びするぐらいに。表情も険しくならないように。できれば拳は握らずに、腕も組んだり曲げたりせずに。あちこちの関節を伸ばして、体を開く。そうやって止めとくのが難しければゆっくり動かす。
  3. 言葉としてはまずは相手の言い分を聴く。ワンパターンになりすぎないようにあいづち。相手の言葉をほぼそのまま復唱したり、少し別の言葉で言い換えてみたり。うまく言えないようなら「○○だったの?」「○○な感じ?」とくみ取り、言語化を促すのも同じ効果。決めつけず、すり合わせる。
  4. ついつい口をついて出そうになる、「でも」「だけど」にブレーキをかける。こういうやり取りをしている時には、言いそうになっていないか、もうひとりの自分が監視するようなイメージ。逆接の接続詞を使わずに「私は◇◇がいいな」と伝える。いうことを聞かせるのではない。
  5. 「そっかー」「そうだねー」などと保留する言葉をあちこちにはさむ。今、対立していることについてすぐに結論を出さなければいけない、決着をつけないといけないわけではないことを暗黙に、あるいは明示的に伝える。離れて距離を置いたり、別の話題に切り替えたり、あるいは話を深めたり。
  6. こういうことをしながら、不適切な行動化・逸脱は、叱らずに、物理的・身体的に阻止する。おもちゃを投げそうになってる手を抑える。投げそうなものを遠ざける。叩く・蹴る手・足を抱きすくめるように抑える。子どもがその場を逃げ出したいのなら、元の場所から少し離れたところで止める。
  7. こんな風に、何かを強要するのではなく相手の主張を受け止め、こちらの伝えたいことを伝え、荒れた気持ちがトーンダウンして自分でどうするかを選べるまでの時間を迫害的にならないように待ち、こちらが認められる範囲を少し広げた上で、その中で本人の意思決定を尊重する。

というのが「寄り添う」ことだと考えてます。

dicegeist(@dicegeist)/2016年01月11日 - Twilogより。

体罰に依存しないで済む特別支援教育であってほしい

Twitter連投より)

www.sankei.com
このニュースに関して、「生活上のしつけをしただけなのに体罰だなんて!」「特別支援学級体罰無しでの指導なんて夢物語」との旨を書いている人たちがいました。

「こぼした麦茶を拭かせた」ことが体罰とされたんじゃなくて、
その子が障害特性のために感情のコントロールに時間がかかっていることを理解せず、抵抗している状態で力ずくである動作をさせたことに伴い怪我をさせたことが体罰とされたんでしょう。

療育センターで、(地域の小学校の特別支援学級ではなく)特別支援学校に進むことになるより障害程度の重い未就学児のお子さんたちを直接見ていた私自身の経験では、
「『体罰』無しでの学級運営」なんて夢物語でもなんでもないですよ。大前提。体罰を用いないと身につかない、のは思い込みでズレてる

言葉でのコミュニケーションがまだ身についていない子であれば、その子の体に手を添えて、手をかけて何かを伝えることはもちろんあるでしょう。
でも、それは「何か危険なことをしようとしているのを『止める』とき」や、あるいは「本人が聞き入れる体制になっているときに体の使い方を教えるとき」。

そうやって、聞き入れる体制になっていない状態で、力ずくでなにかをさせることを正当化したことが、
その子が力ずくで反発・抵抗することを助長しているということに気づかないほど、余裕がないのか。
力で押さえ込んで教えることは、一時的に
うまくいった気がしても、長期的にはマイナス。

何秒か、何十秒か、子どもの気持ちの受け入れ態勢が変わるのを待つことができないと、力ずくになる。

理想に燃えた先生が言うような「子どもはみな同じ可能性を持っている。『愛』を持って伝えれば必ずわかるはず」という見方に私は反対です。
一人一人わかりやすい伝え方や、成長のペースの違いがある。
そこを踏まえないで「今すぐにこれをさせて教えなくちゃ」と近視眼的になるのは「愛」ではない。




忙しすぎて、さらに閉じた人間関係の中にいると、自分の「あたりまえ」とか常識とかを振り返ることができなくなる。

自治体によって程度の差はあるだろうけど、支援級の先生が専門的なトレーニングを受け何かの資格を持っている率は決して高くないし、配属前の「研修」もごく限られたものと聞く。

昨晩も書きましたが、個人としての先生がどうこうではなく、システムの不備。

2歳や3歳から療育に通ってきた保護者と比べて、「知らない」先生がいるのも、制度的・構造的なもの。

仕事も定時なんてあってないような世界の超多忙さで、勤務時間外に自己研鑽をなんて望めない。

先生も人間。

例えば特別支援学級に先生が3人いるとして、誰か一人が出たあとに代わりにそこに配属になった先生は、
規程の研修なんかもあるかもしれませんが、その支援級に元からいた2人の先生にあれこれ聞きながら、その支援級の中での「あたりまえ」が標準だと思いながら経験を積んでいくことになるでしょう。

「誰かが悪い」というよりは、孤立し、閉じている構造がネック。
特別支援学校の地域サポートとか、教育委員会特別支援教育担当のサポートがうまく回っていればラッキー。

そこで学校とか先生とかを非難したり叩いたり攻撃したりすると、ますます溝は深まる。
考え方の否定と、人の否定は違う。



そもそも、学校というところでは「達成度」「習得度」のようなものを評価することはあっても、
その前の子どもの状態を評価すること、
つまり、認知機能の凸凹としての得意不得意とか、
これまでの知的発達のペースから推測されるここからの発達のペースの見込みとかを見立てるという概念がない?

そのために「この子にはなにをどうやって教えよう」ではなくて、「この学年の子どもにはなにを教えていきたいか」がメインになる?

そしてそのために、学年間の引き継ぎとか、外部で行った発達検査・知能検査とかを、「先入観を持つのは良くない」といって、あまり取り入れようとしない先生がいる?




体罰肯定論の人をぶんなg…じゃなかった、折かn…でもなかった、身体的に教育的指導を行ったら、その「体罰肯定」という不適切な考え方を改めさせることができるか、という重大なパラドクスに足を突っ込んでしまわないように。

無暗な負担の押し付けは避けないといけないけど、特別支援学級ですら子どもに合わせた指導という発想が持てないのなら、「緩やかに」どころか未来永劫多様性社会など来ませんよ。
自分の常識が通用しない相手を理解しようとしていないのだから。

指導のためには教師が体罰を用いても構わないと主張する人は、
家で子どもを殴りつける児童虐待も「しつけの一環」と主張することでしょう。

そうした方は、子どもの逸脱行動はゼロトレランス方式で許容しないのに対して、自らの暴力行為は「しつけ」と称してなあなあにしてごまかす卑怯者かも。

学校の先生方が、無給での時間外勤務や部活顧問強制のような制度面での不備のために過重労働となっていることや、一部の変な先生がやる変なことで過度の一般化をされて非難にさらされ続けることは、しかるべく改善されていってほしいものです。
先生方はとても大変。

でも、体罰は是認できません。

主導権争い、権力闘争、正義論争にならない双方向的なコミュニケーションがあたりまえに広まっていくことを願います。

http://twilog.org/dicegeist/date-160124/ascより。

ストーリーとして語ること、問題を見つけ出すこと、自分から察することについて

(以前のTwitter連投より)

傾聴ということの狙いのひとつは、こちらが邪魔をせずに話を促すことで、その人の中でモヤモヤとしているイメージの言語化、整理がされるようにしていくこと。
否定的に割り込むとそれへの反論を組み立てる方向にシフトしてしまうので、まずはその人の今抱えているものの形を浮かび上がらせること。

ただ、「この限られた時間に、このことを相談したい」という構えがないと、そうした語りは生じにくい。一人であれこれつぶやくのと、人に向けて伝えようとして話すことは違うので。

カウンセリング界隈では、ある種の発達障害特性がある人は、自分の抱えているあいまいなものを、主訴として、そしてカウンセリングの進行の中で深まっていく語りとして紡ぐことが苦手なんじゃないか、ということが言われていたりして。

語ることは、ストーリーを作ること。
「語る」と「騙る」が同じ読みなように、ストーリーを紡いでいくと、それは必ずしも事実と同じではないかもしれないけれど、それでいい。
ストーリーの中に役割を持った存在として、あるいは感情の主体として自分を位置づける。それを話すことで展開する。

客観的に状況をとらえるのが得意な反面、抽象的な関係をとらえることや感情の言語化が苦手だと、こうしたストーリーを描くことが難しい。
古くは左翼、今ならネウヨのような形で、あるいはオウムのような形で、ストーリーを取り込めば、それで安心ができたりする。
でも、その主人公にはなれない。



自他の区別ということもあるけれど、自分で感じたことを元に、自分の意思を持って、自分の判断をする姿勢というのは、ある面では、待たないと、育たない。
聞き分けが悪かったり、注意の転導性が高かったり、あるいは逆に聞き分けが良すぎたりすると、どんどん声をかけずにはいられないのだけど。

お昼ごろに見かけた、ADHD特性がある子が、床に落ちているゴミをうまく見つけられないという話。
自閉症スペクトラム特性があると、日々の生活、サイクル、ルーチンの中で、何かが引っかかっている違和感を感じても、どこが問題なのかを切り出しにくい、物語化しにくい、ということではないか。

人工知能研究の中で言われる、フレーム問題 http://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/AItopis1.html というのも、問題の適切な切り出しができるかどうか、と考えられる。
シンプルに取り出された問題には対応できても、そうじゃないことへの対応は難しい。

勉強や仕事などで「問題を自分で作れるか」「課題を自分で発見できるか」というようなことがいわれるのは、こうした切り出し能力、あるいは物語化能力のことを指している。

仕事術なんかで、メールの受信箱や、タスクリストをしっかりとテキパキと片づける、ということなんかが言われたりするけれど、これは、明確化された課題への対応。
組織の中で、あるいは日常生活を回す上で大事なことなんだけど、人間そればかりではない。




人間関係、特に夫婦間や恋人同士などの親密な関係や、あるいは甘えていたい子どもと親の間では、言わなくても察してほしい、というのは自然なことなんだけれども、いろいろな事情(発達特性や、多忙・不調によるキャパシティー低下など)で、その察するのを苦手な人が一方にでてくることがしばしば。

ふつうは、どちらか一方が察してほしいと感じて、もう一方がそれに気付き損ね続ける、というような形になる。交互にすれ違い、というケースもないではないけど。
そんな時、もう一歩ずつでも歩み寄りができるといいけど、察しにくい方はどうすればいいか。特に受け身タイプ・課題対応タイプなら?

一つには、リマインダーに登録して、毎日一定の時間に、相手が何をしてほしいかを考える、なんてやり方もあるかもしれない。味気ないかもしれないけど。
ただ、せっかくなら、もっと前へ行けるようなイメージはどうか。
日常生活、いろんなことがある、その中で、特別なプロジェクトを立ち上げる。

プロジェクトというのは元の英語からして、前へ向かって投げていく感じ(映写機はprojector、あるいは何かから発射されたものはprojectile)で、うってつけなのです。
何を相手から求められたわけでもないけど、自分からこういうことをしてみたらスゴイんじゃないかってタクラむ。

なんだか、段々とギクシャクしてきているような気もするけど、なにがどうなのかわからない、どう手を打っていいかわからない、という時こそ、プロジェクトを打つ。ルーチンから外れたことをする。

でもね、これって、察するのが苦手な側には、すごくハードルが高いことなんです。
というのが、こうした相手の微妙な心の機微をつかむのが苦手なタイプの人は、あるいは機嫌のアップダウンが激しいタイプの相手で機微を読みづらい関係状況の人は、失敗体験を積んでることが多いので。

これまで生きてきた中で、時々、自分からちょっと提案、働きかけ、お誘いなんかをしてみた時に、うまく読めてなくて手酷く失敗した体験、頭ごなしに叱られた体験が重なっていくと、段々に萎縮していって、受け身特性が強化されちゃうため。
人間関係強者の側の人が、そこへの配慮も持てると良い。

仕事でいえば、言われた仕事だけを黙々とやる人と、自分から次々に問題を発見して新しい事業を開拓していく人との間に、ちょっと気づいたことはあるけれどうっかり口にして上司に睨まれないか心配で黙っている、という人がいる。
人間関係の持ち方のタイプが違う2人が、こんな上下にならないように。

ダラダラと長くなったな。

dicegeist(@dicegeist)/2015年06月27日 - Twilogより。

障害を抱えた人の「努力」のための「理解」について

Twitter連投より)

発達の凸凹がある・障害があるってことは「努力しないでいい」ではないし、「努力することが無駄」でもない。
気にとめるべきなのは、「努力すれば必ずできる」でもないし、「できないのは努力が足りないから」でもないということ。
努力をするのは本人で、それを邪魔も押し付けもせず、応援をする。

ここらへんの塩梅がうまくいかないと、努力が見えやすい形で身を結んだ子や親だけを持ち上げ、そうではない子や親を貶めるようなことになる。
「できそう」「やれそう」「やってみたい」「できるようになりたい」「がんばりたい」をどうやって引き出していくか、がカギ。
それまでにその人があきらめていたようなことでも、こうした刺激がうまくハマれば、「がんばってできるようになりたい!」になる。
そのために、スモールステップで成功体験を積みやすくして、本人の眠っていた意欲を引き出すことをねらう。

元から「ない」意欲は、引き出しようがない。
でも、「なさそうに見えて、実は奥に眠っている」意欲は、結構ある。
それを、脅かさないように、過度のプレッシャーにならないように、ていねいに誘い出していく。

発達早期に大事なのは、
「わからなかったことが、わかるようになった。できなかったことが、できるようになった。難しいかと思ったことが、がんばったらできた。
それが自分自身で嬉しいし、誇らしいだけでなく、自分の信頼する周りの大人も同じように喜んでくれる」
という経験を積むこと。

こうやって、本人の達成感や自信に、周りの大人が寄り添い共感することが、信頼感の貯金になっていく。
この貯金があることで、子どもは自分があまり自信を持てない・関心を持てないことでも、大人の後押しでやってみよう、がんばってみようと思えるようになる。

多くの子どもたちは、微笑むこと、おもちゃに手を伸ばすこと、ハイハイできるようになること、立って歩けるようになること、話せるようになること、だんだん複雑な遊びができるようになってくこと、
こうした発達のプロセスを進む中で、達成感と大人からの共感を得て、自然にこの貯金を作っていける。
だから、ちょっとやそっと大人が大雑把な対応をしても、なかば無理やりに勉強を進めていっても、一個一個のハードルを乗り越えて、その先の世界を見つけていく。

でも、発達のペースがゆっくりだったり凸凹していたりして、うまく自信を身につけられなかったり、共感されなかったりした子は苦しい。
がんばれる、ガマンできる、気持ちを切り替えられる、こうしたことは全部それまでに大人が自己効力感や共感の贈り物をしてきたことが元手になっている。

だからその子がどんな子か、今どんな状態を見極めなくちゃいけない。
ずっと手入れされてないやせ細った土なのか、肥料があり余っている土か。
失敗しにくい状況を整えてあげることが必要な場面もあるし、あえて厳しくしたほうがよい場面もある。
子どもによっても違うし、タイミングによっても違う。
だから「子育ては/療育は/教育は、こうすればいい」という1つの正解はない。
思い込みに囚われず、そこを見極めていかなくちゃいけない。

無責任・無思慮な「努力しろ」「ガマンしろ」で、元から底をつきかけているエネルギーを枯渇させたり、なけなしの貯金を際限なく浪費するのは、ただただ残念。

収支のバランス考えること、特に大事なのは先払いすること。大人目線で「ほめる」よりも、その子の好きなことに共感する方が良い。

わかったようなことをいう大人ではなく、その子の「理解者」がどれだけいるか。
止めようとしても止められない・やると落ちつく常同行動を、
本人は苦しく・周りはめんどくさいこだわりや感覚過敏を、
悪気なく食い違ってしまうコミュニケーションを、
どれだけ気をつけても抜けちゃう不注意を。

こうしたことは「障害かどうかのチェックリスト項目」ではない。
その人が、なんとか気持ちを保とう、うまくコミュニケーションをとろう、失敗しないように気をつけようとしている、適応の、努力の形が、一人一人の現れ方をしているもの。

そうやってちゃんと「理解」されれば、ちゃんと頑張れる。

「○○障害に特徴的な行動」とは何かができないことではない。なんとかしようとしてうまくいかなかった形のこと。
そこを踏まえないで、それを問題行動としてみなしてただなくそうとしたり、あるいは「障害を治そう」としたりすることは、その根っこの、なんとかしようとしていることを否定してしまう。

「障害への理解」とか「障害を抱えた人が努力すべきかどうか」とか「寄り添うこと」とか「成功体験」とかについて、こんな風に考えています、という話でした。(全15ツイート)

dicegeist(@dicegeist)/2016年01月25日 - Twilogより。



以下、連投にあたって私が触発されたツイートたちです。